2022/05/08

経験が言語化された授業


 先日、「自己を見つめる」とは児童生徒の「言語化しにくい経験を言語化する」ということになるということを述べました。今日はその具体例を考えてみようと思います。

 小学校高学年で、地域清掃を扱った教材で授業をした際の話です。「地域をきれいにしたい気持ちはある。でも、自分はできないかも・・・」ということについて学級で話し合っていた時です。ある児童が「僕も川を一人で掃除をしたことがある。でも、みんなの視線に耐えられなくなって途中でやめてしまった。それ以来、やっていない」という経験を発表しました。それを聞いた瞬間、教室の時間が一瞬だけ止まったように感じました。もしかしたら、授業者が想像していない発言だったので授業者の思考だけが一瞬止まってしまったのかもしれませんが、教室のみんながその児童の発言の続きと、教師がどのように応えるのかに注視していたように思います。

 おそらく、その児童の経験はこれまで学級の誰にも話をしていなかったものです。それが授業での発問や話し合いを通して初めて言語化されました。その結果、その経験はその児童の外部に出たことになります。授業者は、他の児童に「今から少しこの経験について二人で話をしてもいいかな」と伝えた後、その児童に「先生はすごいと感じたよ。なぜ、清掃をしようと思ったの?」「みんなの視線が気になった時、心の中でどんなことを考えた?」等といくつか尋ねました。このやりとりは授業者とその児童の二人のやりとりでしたが、周りの児童はそのやりとりを真剣に聞いていました。そして、自分なりに「地域の清掃をすること」について考えていたと思います。まさに、一人の児童へのリフレクティングを見せることで、周りの児童にも自己をふり返らせていたことになります。もちろん全員に発言を求めることは授業時間的に厳しいですし、無理に発言させる必要もありません。みんなの真剣に聴いている表情が、何よりの反応になっていたからです。それぞれが心の中で自己の経験を言語化する時間になればよいのです。

 さて、その児童の経験は言語化することで外に出ました。そうすることで、その経験に今の自分から見た「意味」が生まれたのです。「あの時は恥ずかしかったけれど、今の自分から見ると、とても素晴らしいことだったんだ」「みんなの視線も、僕を褒めてくれていたのかもしれない」という具合です。道徳化授業で重視される「自己をふり返る」とは、このようなことをいうのではないでしょうか。

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