道徳科の授業では「◯◯の気持ちになって考える」という学習活動がよく設定されます。しかし、小学校低学年に比べて、高学年や中学生の児童生徒は「人物になりきる」という行為に抵抗があるかもしれません。果たして、「人物になって考える」という学習活動は本当に必要なのでしょうか。
本日は、この「◯◯の気持ちになって考える」ということについて考えてみます。このことについて、田沼(2022)の「道徳性の発達」についての論が参考になります。
(以下、著書より抜粋)
道徳性発達は、個の人格的成長という点で基本的に他律的段階から自律的段階へという過程を辿ることとなる。
認知的側面から見れば、物事の結果だけで判断する見方から動機をも重視する見方へと変化する。また、自分の主観的な見方から視野を広げて客観性を重視した見方、一面的な見方へと変化を見せるようになる。
言わば、このような道徳性発達の特徴は、子供が内なる目で自分自身を見つめる能力(自己モニタリング力)、相手の立場で物事を考えたり思いやったりする能力(役割取得能力)、さらにはここの自然性に裏打ちされた情意的側面としての感性や情操の発達、行動的側面に関わる社会的経験の拡大や実践能力の発達、社会的役割や期待への自覚といったこと等とも密接に関係している。
(以上)
上記を読むと、役割取得能力の育成は子供たちの道徳性の発達に大きく関与していることが分かります。「なりきって考える」ことは道徳科授業の中の学習活動の一つとして捉えられている印象を受けますが、実はこの「なりきって考える」という活動そのものが役割取得能力の育成につながるものだと考えられます。
今回は道徳科授業の当たり前(人物になりきって考える)を疑うことで、実はその当たり前の意義を見直すことができたように思います。
《引用参考文献》
田沼茂紀『道徳科教育学の構想とその展開』(2022,北樹出版)