2022/05/31

役割取得能力


 道徳科の授業では「◯◯の気持ちになって考える」という学習活動がよく設定されます。しかし、小学校低学年に比べて、高学年や中学生の児童生徒は「人物になりきる」という行為に抵抗があるかもしれません。果たして、「人物になって考える」という学習活動は本当に必要なのでしょうか

 本日は、この「◯◯の気持ちになって考える」ということについて考えてみます。このことについて、田沼(2022)の「道徳性の発達」についての論が参考になります。

(以下、著書より抜粋)

 道徳性発達は、個の人格的成長という点で基本的に他律的段階から自律的段階へという過程を辿ることとなる。

 認知的側面から見れば、物事の結果だけで判断する見方から動機をも重視する見方へと変化する。また、自分の主観的な見方から視野を広げて客観性を重視した見方、一面的な見方へと変化を見せるようになる。

 言わば、このような道徳性発達の特徴は、子供が内なる目で自分自身を見つめる能力(自己モニタリング力)、相手の立場で物事を考えたり思いやったりする能力(役割取得能力)、さらにはここの自然性に裏打ちされた情意的側面としての感性や情操の発達、行動的側面に関わる社会的経験の拡大や実践能力の発達、社会的役割や期待への自覚といったこと等とも密接に関係している。

(以上)

 上記を読むと、役割取得能力の育成は子供たちの道徳性の発達に大きく関与していることが分かります。「なりきって考える」ことは道徳科授業の中の学習活動の一つとして捉えられている印象を受けますが、実はこの「なりきって考える」という活動そのものが役割取得能力の育成につながるものだと考えられます。

 今回は道徳科授業の当たり前(人物になりきって考える)を疑うことで、実はその当たり前の意義を見直すことができたように思います。


《引用参考文献》

田沼茂紀『道徳科教育学の構想とその展開』(2022,北樹出版)

2022/05/29

個別な問い

 先日、範読後に感想を伝え合うことの意義について述べました(5月27日の記事)。感想を話し合わせることで他者との感じ方の違いに気づかせるとともに、学習の視点を揃えることができると提案しています。この提案に関して、田沼(2022)の著書が参考になります。

(以下、著書より抜粋)

例えば、35人学級で同じ道徳的問題を提示したとすると、そこには35通りの個別な「問い」が存在することとなる。それを受容し、道徳学習のスタートラインにすることが大切である。

 もちろん、その「問い」の中に似通ったもの、視点が異なるもの、場合によっては真逆の疑問が生ずるかもしれない。それらを課題探求しようとしていくところに「道徳学習」が成立するのであるが、当然のように個別の課題追求では思考が堂々巡りして多面的・多角的な思考が実現されない。そこで、道徳科授業の導入ではそれら個別の「問い」を意図的に披瀝し合う場を設け、語らいを通して摺り合わせ、調和的に調節し合い、学習集団全体の価値理解への合意形成プロセスを経るための共通追求道徳課題設定を行うこととなる。

 このようなモデレーション手続きを踏むことで追求すべき道徳学習課題が明確となり、共有され、全員が同じ土俵に立ってその課題追求を目指すことが可能になるのである。

(以上)

範読を聞くことで生まれる違和感やもやもやのことを田沼は「個別の問い」と呼び、その「個別の問い」を導入場面で出し合い、調和的に調節することで「共有の問い」を設定することが大事であるということです。


《引用参考文献》

田沼茂紀『道徳科教育学の構想とその展開』(2022,北樹出版)

2022/05/28

三びきは友だち(6)と「はしの上のおおかみ」


 

 園田(2021)は、「はしの上のおおかみ」での発問に関して以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

はしの上のおおかみについて、次のような発問をしてはどうか、と提案している。「おおかみはどうしてえらそうにしていたのだろう」。子どもは自分の経験をふまえつつ、一年生ならではの意見を述べてくれるに違いない。よくないとされている行為の背景には、おおかみはおおかみなりの理由がある。そのことを理解できている子ども。意見を聴いて新たに気づく子ども。理解に苦しむ子ども。これからどうすればよいかについて新たな行動提起をしてくれる子ども。様々な子どもの育ちの姿がくっきりと具現する発問として、とても興味深い。

(以上)

 「はしの上のおおかみ」のおおかみと、「三びきは友だち」のぴょんた、どちらもその行為の背景を理解してあげる必要があるといえないでしょうか。園田の提案をもとに考えると、「ぴょんたはどうしてわんた一人のせいにしたのだろう」という発問に、大きな意義があるといえます。


《引用参考文献》

園田雅治『「つながり」を育み授業を愉しむ』(2021,解放出版社)

2022/05/27

三びきは友だち(5)


 先日は、以下(図1)のような展開でぴょんたの視点を与えることを述べました。

(図1 ぴょんたの視点をもたせるための学習展開案 筆者作成) 


 別の方法として、範読の後に感想を伝え合うということもできます。範読を聞くと子供たちはそれぞれの視点で感想を抱きます。頭の中にモヤモヤを感じたり疑問を持ったりします。自分の経験を思い出している子もいるでしょう。その範読の後の「もやもや」こそ、違和感こそ、その子が現在もっている道徳性なのです。今自分がもっている道徳性を自覚させ、他者の感じ方との違いを知り、ずれに気づく。感想を伝えることにはこのようなねらいもあります

 さて、「お話を聞いた感想をお隣に伝えてごらん」、範読の後にお隣とペアトークをさせてはどうでしょうか。おそらく、それぞれの思いを伝え合うでしょう。ここで、小さな工夫ですが、「では、感想を発表してください」と呼びかけた際に、挙手が少ないことがあります。そのような時は、「お隣と感想が似ていたい人?」「お隣と感想が違っていた人?」のように呼びかけてみることも効果的です。

 子供たちからは、「ぽんきちがかわいそう」「ぴょんたのしたことはいけないことだと思う」「自分から走っていったわんたはえらい」など、様々な視点の感想が出てくるでしょう。それらの感想を出させたあとに、例えば「なにか不思議に思うことはあった?」「一番考えてみたいことは何かな?」と尋ねると、本時の学習テーマを設定することにつながります。「なぜ、ぴょんたのしたことはいけないと言えるの?今日はこのことについて考えてみようか」と、教師から提案をしてもいいでしょう。

 また、ここでの感想を授業後半で活用することもできます。わんたの姿を見て、自分から走っていったぴょんた。例えば、「わんたと同じように、ぴょんたも気づいたんだね。ぴょんたも、わんたと同じようにえらいね」と、悪者を作らずに授業を終えることができます。「ぴょんたはいけないことをした」という感想を後半で活用すると、「下を向いているときに、◯◯さんが言ってくれたように、ぴょんたはいけないことをしたことに気づいて、悩んでいたのかな。」と、子供の言葉を使って発問をつくることができます。

 このように、「感想を尋ねてみる」という学習活動を入れてみるだけで、授業の幅が大きく広がるのではないでしょうか。

 

(図2 児童生徒の感想をもとに視点をもたせるための学習展開案 筆者作成)

2022/05/26

三びきは友だち(4)


 本教材を読んだ時、皆さんは登場人物の誰の視点で物語に入り込みましたか。私は・・・、ぽんきちの視点になりました。自分だけが悪者にされて怒られる・・・。きっと悲しかったことでしょう。

 さて、学級の子供たちも、教材を読んだ時点でどの人物の視点でお話の世界に入り込むかはそれぞれです。その「視点」を教師がどのように扱うかも、授業づくりでは大事になります。なぜなら、教師は中心人物のぴょんたになるという前提で授業を設計していることが多いので、そのままでは思考の前提(視点)が揃わないからです。その場合、教師の発問が子供たちに届かない(理解されない)ということが起こってしまいます。

 私のようにぽんきちの視点でお話に入っているのに、教師からは「ぴょんたになりきって考えよう」と言われると、授業に入ることを難しく感じてしまいます。そこで、その難しさに対応する手立てとして、授業のはじめに「ぴょんたになって考えてね」と伝えることで物語に入る視点を与えることが考えられます。この場合、全員の視点をすぐに揃えられる(考えやすくなる)というメリットがありますが、子供たちの自由な思考を妨げてしまうというデメリットもあります。学びの主体者は子供たちなので、やはり思考(視点)の自由さを大事にしてあげたいところです。

 もちろん、視点の与え方を工夫することで子供たちの主体性を引き出すことも可能です。

例えば、教材の範読の前に、お話の前半(くまおじさんの登場する場面まで)を教師が挿絵を使って説明します。「花壇をめちゃくちゃにしたのは誰だ」と叫ぶくまおじさんに対して、ぴょんたはどのような行動をとったのかを子供たちに自由に想像させます。その想像を発表させたあとに範読をすると、子供たちはすでにぴょんたの視点で物語に入り込みます。そして、自分の想像と異なる行動をしたぴょんたに対して、「えっ!」「おかしい!」とつぶやくでしょう。これが、視点を揃えたうえで主体性も大事にできる授業展開の案の一つです。

 なお、そのつぶやきの中には、「不合理な言動をおかしいと感じる心」が込められています。しかし、2年生の子供たちは、その心を自覚していないかもしれません。言葉では上手く表現できないかもしれません。だからこそ、つぶやきを拾い、その心を自覚させてあげる必要があるのです。



2022/05/25

三びきは友だち(3)


 前日、以下の三点の視点を本教材の授業づくりで大事にしたいと述べました。

 本日は、上記の視点をもとにして授業展開のポイントを考えます。

(1)「仲間はずれ」「一人ぼっち」が生まれることを理解させる。

 ぴょんたの言動により、ぽんきちだけが怒られることになりました。仲良しのわんたを助けるために、ぽんきちが一人ぼっちにされたのです。ここで気をつけたいのは、「怒られる」ということに注意を向けさせるのではなく、ぴょんたの言動によって仲間はずれや一人ぼっちが生まれたことに目を向けさせることが大切になります。


(2)自分も周りも嫌な気持ちになることに共感させる。

 ぽんきちはきっと悲しい気持ちになったことでしょう。それは、花壇を踏みつけてしまったことをくまおじさんに厳しく怒られたからでしょうか。「怒られたから、悲しい気持ちになったんだよね?」と尋ねてみると、子供たちはどのような反応をするでしょうか。「いや、そうではない!自分一人だけが悪者にされたからだ!」という発言が生まれないでしょうか。怒られることは嫌なことです。しかし、誰かが大切にしている花壇を踏みつけてしまったのなら、それは怒られて仕方のないことかもしれないと2年生の児童も考えるでしょう。本当に悲しいことは、その行為を自分一人のせいにされたことであり、その悲しみを子供たちに気づかせる必要があるのです。このままでは、ぽんきちは心に深い傷を負うかもしれません。ぴょんたのことも嫌いになってしまうでしょう。「このままでいいのかな?」「わんたは怒られなくてよかったね。わんたは嬉しかったのかな」ということも子供たちに尋ねたいところです。


(3)みんなが楽しく、よい気持ちになれることに気づかせる。

 ぴょんたは、長い間下を向いて考えた後、走り出しました。その後の様子は教材に描かれていません。もしかしたら、ぴょんたもすごく怒られたかもしれません(中学校の生徒指導の先生に言わせると、一番怒られるのはぴょんたになるとのことです)。では、ぴょんたは下を向いている間に、どのようなことを考えたのか。何に気づいて走り出したのか(中心人物の変容)、その変容場面の葛藤を尋ねることは大変有効になります。

 さて、変容場面の葛藤について子供たちに尋ねると、どのような意見が出るでしょうか。

①「くまおじさんに嘘をついたことを謝ろう」

②「一人ぼっちにさせてしまったぽんきちに謝りたい」

③「仲良しのわんたに嫌われたくない」

④「自分一人が仲間外れにされると思った」

 上記の①は本教材のねらいとは異なり、「正直、誠実」の内容に近くなります。子供の発言を受け入れつつ、「広げるための問い返し」をしていきたいところです。②の意見が出てきたら、その考えについて全体で深めていけばよいでしょう。

 さて、③と④の意見はいかがでしょう。「自分は仲間はずれにされたくない」「一人ぼっちにされてさみしかった」など、子供たちの素直な思いや過去の経験から出される発言かもしれません。このような意見を大事に受け取って問い返すことで、道徳的諸価値のよさに気づかせることができます。例えば、「今のぴょんたなら、ぽんきちの気持ちがよくわかるかな?」「わんたの姿を見て、ぴょんたが気づいたことはどんなことかな?」などのように問い返したあと「お隣の人とお話してごらん」と声をかけると、きっと活発なペアトークが生まれるのではないでしょうか。

2022/05/24

三びきは友だち(2)


 学習指導要領解説の低学年「公正、公平、社会正義」に、「自分の好き嫌いにとらわれて接すると、仲間はずれや一人ぼっちになる人が出ます。そうすると、その人もいやな気持ちになりますが、自分も、周りもいやな気持ちになります。」という文言があります。この2文が本教材の授業づくりに大きなヒントを与えてくれます。

 前述しましたが、本教材は「友達」や「素直に謝ること」について考えることを目的とはしていません。「みんなで仲良くするということ」について考え、そのよさを実感したり自己の行動をふり返ったりすることをねらいます。その学習活動を学習指導要領解説の言葉を借りると以下のようになります。

 

 この三点を意識して発問や展開を用意する必要があるということです。

2022/05/23

三びきは友だち(1)


 日本文教出版2年生「三びきは友だち」の授業づくりに取り組んでいきます。

 内容項目は「公正、公平、社会正義」。学習指導要領解説によると、低学年の学習内容は「自分の好き嫌いにとらわれないで接すること」になります(上位学年の中学年は「誰に対しても別け隔てをせず、公正、公平な態度で接すること」)。

 本教材を一読して見ると、「この3びきは友達かな?」という疑問が思い浮かびます。この疑問がそのまま発問(授業展開)につながるかもしれないと考えてしまいがちですが、本教材を「友達について考えよう」というねらいにしてしまうと、学習指導要領の学習内容と大きく異なってしまうことに気づきます。

 また、最後の場面で、中心人物である「ぴょんた」が何を考えていたのかを子供たちに話し合わせた時に、「きちんと謝る」という発言をする児童がいることも想定できます。しかし、先述と同様、本教材の学習内容は「悪いことをしたら、素直に謝る」(正直、誠実)というものではありません

 このように、「自分の好き嫌いにとらわれないで接すること」という学習内容、いわゆる「えこひいきをしない」という思考は2年生の子供たちの素直な感想からはなかなか出てこないものではないかと想像できます。なお、もしかしたら「みんなで仲良く」ということを幼稚園や1年生で教えられてきたかもしれませんが、そのよさを実感しないままスローガンのように使ってきている子が多いかもしれません(これはただの「行為の押し付け」)。同様に、本教材の授業の終末で「みんなで仲良くすることは大事だね」と教師から伝えることにあまり価値はありません。まずは、本教材の学習内容が子供の発達段階による意識から遠いところにあるということを意識した上で、「みんなで仲良くするとは、どういうことか」「そのよさはどのようなものか」を考える授業展開を考えてみてはどうかと思っています。

2022/05/22

あれも これも

 誰かに何かを伝える際に、「〜したほうがいい」と自分の考えを押し付けてしまうことがあります。相手が子どもであれば、なおこの傾向が強くなります。この伝え方には「他者の意識を変えよう」とする思いが隠れています。しかし、他者の意識を変えることは困難であるという事実をきちんと認識しておく必要があるでしょう。

 さて、他者との対話について、矢原(2016)の著書の一節がとても参考になります。

(以下、引用参考抜粋)

 ビューロー=ハンセンによって促されたのが、「あれかこれか」(either-or)から「あれもこれも」(both-and)へのパースペクティヴ(見通し)の変化である。1984年の秋頃まで、アンデルセンたちはセラピーにおいて家族らに何らかの指示をおこなっていた。「あなた方の状況はこうです」「だから、このようにしてください」といった具合だ。そうした振る舞いの前提には、専門家こそが「正解」を有しているという思い込みが存在する。しかしビューロー=ハンセンは、そのような特定の見方にたつことの危うさを指摘した。彼女は施術をおこなう相手の身体の内側から、常に多様な声を受け止めていた。やがて、アンデルセンたちの話し方は、「あなたがたの理解の仕方に加えて、僕たちはこんなふうに理解しました」「あなた方がしてきたことに加えて、こんなことは想像できるでしょうか」というふうに変化していった。それは、一見ささやかな、しかし、決定的な変化であった。

(以上)

 何かを伝えたときに、「そんなのは納得できない」「おかしいと思う」という反応があったとします。感情的に反論を述べられることもあるでしょう。その意見は、相手の正解なのです。そうであれば、その正解はきちんと受け入れてあげることが大切になります。その上で、「私はあなたの言葉を聞いて〜と思いました」「その考えに加えて、〜という考え方もできないでしょうか」「私の考えとあなたの考えの共通点は〜ではないでしょうか」というように、「あれもこれも」という意識で対話をすることが大事なのではないでしょうか。

 

《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)


2022/05/21

人権教育の2本の柱


 人権教育で大事にしたい2本の柱について述べます。

(1)人権についての教育

 「人権課題」についての系統的な学びが大事になります。どの人権課題について、どのようにカリキュラムをデザインするか、まずは子供たちに考えさせたい人権課題を定めます。そして、社会科や総合的な学習の中で、その人権課題についての正しい知識を獲得させます(知識的側面)。道徳科では差別・偏見を許さないという心を育みます(態度的側面)。特別活動で実践力を高めたり国語科で言葉の使い方や伝え方を学びます(技能的側面)。このように、人権教育を推進するということは、人権課題(学習内容)を明確にすること、そして教科・領域のつながりを明確にするということになります。


(2)人権としての教育

 「子供たちの人権を大切にした授業とは?」この問いに私たちはどのように答えたらいいでしょう。まずは、教師がご機嫌でいることでしょうか。他者の考えを受け入れる安心感のある授業でしょうか。どの子も学びの機会が保障されている授業でしょうか。自らの授業を一度ふり返ってみてはどうでしょう。


2022/05/19

人権教育の目的と方法


 人権教育の目的は「社会に存在する様々な人権課題の解消をめざすための態度・技能・知識を育てること」になります。

 そのためには、まずはその学校で「どのような人権課題の解消をめざすのか」を明確にする必要があります。

 次に、学校でのカリキュラムをどのようにつなげていくかが重要になります。



2022/05/18

教師の役割


 道徳科授業における教師の役割について、河野(2011)の論が参考になります。

(以下、抜粋)

 子どもは、ときに経験不足である。自分の狭い範囲の経験しか知らず、人間の交際範囲も限られているかもしれない。歴史や文化比較の知識がないことから、現在の自分が住んでいる社会の出来事を相対化する視点に乏しいかもしれない。議論教育における教師の役割は、教室において欠けているかもしれない多様性をもたらすことである。多様で異質な観点を導入することによって、ピアジュ的な言い方をすれば、子どもの考えを脱中心的にすることができる。

 よって、教師の役割は、老人になることであり、赤ん坊になることであり、文化的に異なったひとになることであり、別の地域の人になることであり、性的マイノリティになることで、過去の人物になることであり、障害や疾病を持った人になることであり、少数派の嗜好を代表することである。その人たちの観点から問題がどう見えるかを示唆することである。

(以上)

 教師の役割は「教室に欠けている多様性をもたらすこと」という河野の提案に、私は「なるほど」と大きく頷くことができます。


《引用参考文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)


2022/05/15

少しの間


 矢原(2016)によると、セイックラは「間」の意義について以下のように述べています。

(以下、抜粋)

「『『お父さんがいなくなったらこわい』とおっしゃるんですね』と話しはじめ、少し間をおくことで、クライアントが本当にそう言いたかったのかを考え直すための『間』をつくるとよいだろう」(Seikkura & Arnkil 2006=2016:69,2014:61-62)

(以上)

 ここで注目をしたいのは「少し間をおく」という表現です。このさりげない表現は、つい読み流してしまうものかもしれません。しかし、セイックラはこの「少しの間」の重要性を説いています。それは、考えを声に出して話すだけではなく、自分が他者に話したことを自分で聞くことができる『内なる対話』を可能にするからです。

 さて、会話においての「間」について、アンデルセン(2007)は三種の間を意識すべきと指摘しています。


三種の間

 ①相手が息を吐いた後、次に息を吸い始める前に生じる間。

 ②何かを話した後、たった今自分が話したことについて考えるために生じる間。

 ③今話したことについてリフレクティング・トークであらためて話され、それによりあらためて新鮮に考えるために生じる間。


 道徳科授業において、例えば②の「自分が話したことについて考えるために生じる間」はとても大事になるのではないでしょうか。子供たちの発言の後、少し間をおいてから「もう少し詳しく教えてほしいな」と伝えることで、その子供の頭の中で「僕はどんなことを話したのだろう。なぜ、先生は僕の発言を聞きたいと言っているのだろう」と「内なる対話」を始めることでしょう。

 また、③の「間」も大事になります。ある児童の意見を取り上げ、その意見を全体で協議する際、その児童は協議を聞くことで自分の発言を外から見つめることになります。頭の中で「自分の思い」と「他者の思い」が対話を始めるのです。その内なる対話のための「少しの間」は、やはりとても重要だと考えられます。

 日々の授業の中に「少しの間」は存在しているか、一度ふり返ってみたいものです。


《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)