2021/12/25

道徳的価値の実現を妨げる条件


 道徳科の授業では、「価値理解」「人間理解」「他者理解」の3つの理解が大事だとされています。その中の「人間理解」においては、その道徳的価値の大事さを理解できても、それを実行できな人間の弱さについて理解することになります。

 では、「人間の弱さ」の要因は何なのでしょうか。村上敏治氏は、道徳的価値の実現を妨げる条件を『阻害条件』と呼んでいます。

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 上記の4つの条件については、子供たちの発言を予想したり整理したりする際に大変参考になるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)


2021/12/24

納得解から自覚へ


 「納得解」という言葉が道徳科授業で一般的に使われるようになりました。しかし、その「納得解」という言葉の意味をどこまで理解(教師自身が納得)をしたうえで使用されているのかに疑問を感じています。私自身も曖昧なまま使っていたように思いますし、「子どもが納得しているならどのようなゴールでもいい」という授業が増えているように感じているからです。

 このことについて、髙宮氏は著書『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』のなかで、共通解・納得解・自覚の違いについて説明をしています。


共通解

学級全体として到達した価値理解。

納得解

知的・概念的な価値理解に加えて、道徳的価値の善さや大切さ、困難さ、多様さなどを実感を伴って理解すること。

自 覚

「道徳的価値の自覚を深める過程」といわれるように、単なる状態ではなく、上記全てを含む過程のこと。学習した価値観をみずからの行為・生き方の指針とし、道徳的実践に至るまでの過程、知的・観念的な価値理解や人間理解を前提に、自己を深く見つめ、価値理解を自分との関わりで深めたり、自分自身の体験をそれに伴う感じ方や考え方を想起したりすることなどを通して、生き方を探求すること

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 上の表をつくることで、我々が考える道徳科授業の目的は、子供たちに「道徳性の自覚」を促すことであると再認識しました。

 また、「納得解」は「理解すること」であり、子供たちの行為・行動を決定づけるものではないということにも気づきました。「理解=行為・行動」であるとすれば、それはまさに価値観の押し付けという批判が生まれます。その授業で考えさせたい道徳的価値について理解をさせることが「納得解」であり、決して行為・行動を決めさせるものではないということです。「納得解」をもとに生き方を探求するなかで、自己の行為・行動を考え見つめさせることが、道徳科授業で求められていることなのでしょう。


《引用参考文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)

2021/12/23

弁証法と道徳科授業


 「問い返す」という用語が道徳科授業でよく使われています。そこで、「問い返す」とは、どのような概念になるのかについて考えてみました。

 このことに関して、髙宮氏の著書を読むと、哲学における「弁証法」が「問い返す」ということを考えるヒントになるのではないかという結論に至りました。

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成


 道徳科授業における「問い返し」は、児童生徒の発言を一度否定したり疑問を呈したりすることで反論を考えさせ、新たな価値理解に導きます。この「否定を通じて新しい肯定を見出す」ということが、まさにヘーゲルの弁証法と通じるものがあるということです。

 髙宮氏は、著書のなかで「否定を通過することによって、最初の平板な理解をゆさぶり、新しい理解を獲得することができる」ということを授業例をもとに論じています。

 このように、「問い返す」という発問を考える際には、弁証法的な思考過程を生み出すことができるかを考慮することが大事になるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)

2021/12/22

教師の役割

 河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に、道徳科授業における教師の役割について考えていきます。

 河野氏は著書の中で教師の役割について以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 子どもは、ときに経験不足である。自分の狭い範囲の経験しか知らず、人間の交際範囲も限られているかもしれない。歴史や文化比較の知識がないことから、現在の自分が住んでいる社会の出来事を相対化する視点に乏しいかもしれない。議論教育における教師の役割は、教室において欠けているかもしれない多様性をもたらすことである。多様で異質な観点を導入することによって、ピアジュ的な言い方をすれば、子どもの考えを脱中心的することができる

 よって、教師の役割は、老人になることであり、赤ん坊になることであり、文化的に異なったひとになることであり、別の地域の人になることであり、性的マイノリティになることで、過去の人物にんることであり、障害や疾病を持った人になることであり、少数派の嗜好を代表することである。その人たちの観点から問題がどう見えるかを示唆することである。議論教育において教師に役割があるとすれば、議論にそれまでなかった異化作用をもたらすことである。

(以上)

 教師の役割は「多様で異質な観点を導入すること」だと河野氏は伝えています。これは対話場面において多面的・多角的に考えさせるための手立てを充実させる必要性を訴えているのだと私は感じました。

 「多面的」という視点で、道徳的価値のもつ様々な側面を考えさせるための問いを用意するということ。

 「多角的」という視点で考えさせるために少数者の視点を対話に取り入れたり、現実社会の課題に気づかせるための資料を用意したりするということ。

 そして、そのためには教師自身の多様な学びも大事になるでしょう。なお、多面的・多角的に考えさせる際には、教師の発言に引っ張られる児童生徒が教室に一定数いることに配慮することも必要になります。「教師=正解」(先生が答えを言ってくれる)という認識だけの教室では、多面的・多角的に考えさせようとする教師の手立てが混乱を招くだけになってしまう恐れがあります。日々の学習活動のなかで、多様な意見にふれる経験や教師と議論をするような経験を積んでいくことも大切であるといえるでしょう。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)

2021/12/21

共感〜アダム・スミス「道徳感情論」〜


 本日も河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に道徳科授業について考えていきます。

 河野氏は著書のなかで「共感」について以下のように論じています。

(以下、抜粋)

 道徳性は、ただの認識としてではなく、行動に表れなければならない。よって、行動を動機づけるものでなければ道徳性の基盤たりえない。感情は行動に密接に結びつくゆえに、道徳性の基盤としてふさわしいのである。

 たとえばスミスによれば、人間は想像によって他人の立場に身を置くことができ、そこから共感が生まれる(『道徳感情論』岩波文庫、2003年)。共感とは、想像上の立場の交換であり、立場を交換して自分の情念と他者の情念が一致したときには、他者の情念が適正であると感じて是認する。適正と感じない場合には否認する。この是認と否認が道徳感情であり、すなわち道徳判断なのである。

 ただし、スミスはここで、道徳的判断のためには「公平な観察者」、すなわち、利害に関係のない第三者としてある人に共感されなければならないと主張する。また、共感という内なる裁判官はしばしば堕落し、自己中心的になる。そこで、個々の行為に対する是認否認の経験を抽象して一定の規則が作られ、それが道徳観の基準となっていく

(以上)

 河野氏は、スミスの論をもとに「共感」の過程について述べています。そして、共感は道徳的判断であるということにも言及しています。

 さて、この論における「共感」の過程を時系列に整理してみます。

想像によって他人の立場に身を置く(想像上の立場の交換)

自分の情念と他者の情念が一致するかどうかを判断(是認・否認)する

公平な観察者の共感を得る

個々の行為に対する是認否認の経験を抽象して一定の規則を設ける

 この過程は、まさに道徳科授業の基本展開に即しているものだと私は感じました。「心情に共感する→対話→納得解→生き方を考える」という学習展開そのものであると思いました。

 このように、私たちが日々取り組んでいる道徳科授業は、哲学の考え方に大きな影響を受けているということを知っておく必要があるでしょう。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)

2021/12/19

脱中心化


 本日も河野哲也氏の『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』を参考に道徳科授業について考えていきます。

 ピアジュは、「子どもの発達は脱中心化にある」としています。このことについて、メルロ=ポンティは「ピアジュによる発達の定義そのものは間違っていないが、真の問題は、脱中心化がどのように獲得されてゆくかである」と論じています。

 道徳科授業での学びを深めるために、ビアジュのいう「脱中心化」という概念がヒントになるのではないでしょうか。では、子どもの発達を促す「脱中心化」は、どのようにすれば生まれるのでしょうか。

(以外、著者より抜粋)

 脱中心化を達成するには、他の視点への「再中心化」を幾度も経なければならない。他者の立場に身を置くこと、すなわち自己と他者の同一視は、脱中心化にとって不可欠のステップである。それは、理性にとって共感が不可欠の基盤であることを意味する。

(以上)

 道徳科授業では、登場人物の心情を自分ごとと捉えて考えさせることが多いです。まさに「他者の立場に身を置く」ということになります。

 脱中心化は他者との関係のなかで育まれるものとされていますが、子ども達が日々接することのできる他者は限られています。だからこそ、道徳科授業に大きな意義があるのではないかと私は思いました。教材の中の多様な他者の立場に身を置くことが脱中心化を促すきっかけになるのではないかと考えたからです。

 おそらく、単に登場人物の立場に身を置くだけではあまり意味をもたないかもしれません。そこに、他者(級友)の異なる価値観を知ることにより、新たな見方・考え方を獲得することができます。そのことこそが、ビアジュのいう「脱中心化」の過程になるのではないでしょうか。

 これまでに何気なく発していた発問や学者展開も、哲学の分野とつなげて考えてみると新たな意味が見えてきます。我々には新たな意味かもしれませんが、実は過去からつながる叡智に気づくことができるということかもしれません。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)

2021/12/18

心理主義


 河野哲也氏の著書『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』について述べていきます。河野氏は著書の中で「心理主義」について言及しています。

(以下、抜粋)

 何人かの社会学者たちは、現代の日本における心理主義化の傾向を指摘している。

 心理主義とは、あらゆる社会の問題を、個人の心の問題に還元してしまう態度をいう。つまり、社会のなかで何か問題が生じれば、それはそれを引き起こした個人の心の問題であり、その個人の心のあり方を改善し、そうならないように、個人の教育を変えなければならないとする考え方である。

(以上)

 例えば、教材「かぼちゃのつる」で、つるを伸ばそうとするかぼちゃの行為を「わがまま」と捉えることは、まさに心理主義的な考え方ではないでしょうか。「およげないりすさん」で、りすを背中に乗せてあげることを善い行為と捉えることも、心理主義から生まれる考え方だと思われます。

 さて、著者である河野氏は、心理主義化された人間の問題として、つねに自分の内面と自分の行動に注意を集中することになり、その結果、社会を運営している権力を持った人びとを批判することなく、弱い人びとの問題行動ばかりを攻撃するようになるということを挙げています。

 このことに関しては、現状の道徳科授業で多面的・多角的に議論させることが心理主義を脱却するための見方・考え方を獲得させることにつながるのではないかと私は考えています。


《参考引用文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)

2021/12/17

絵葉書と切手〜全国小学校道徳教育研究大会の報告より〜


 令和3年度の全国道徳教育研究大会 鹿児島大会の研究冊子を拝読しました。どの研究校の報告も大変勉強になるものばかりでしたが、その中の高知県の小学校の研究報告に大変魅力を感じました。5年間の継続した研究の報告なのですが、教材「絵葉書と切手」の授業分析を中心に研究がされていました。長期間、一つの教材に焦点を当ててPDCAを繰り返すという、学校としての努力と熱意、そして研究内容の焦点化という手法に敬意をいだきました。

 さて、その小学校での研究について、中心発問や授業構成の変遷を紹介します。

(以下、研究冊子の報告をもとに筆者作成)

平成28年度

「どちらが友達のためになると思うか」

教えるか教えないかの二項対立で「友情、信頼」についての考えを深めようとした。

平成29年度


「あなたがひろ子ならどうしますか」

教える、教えないではなく、心の数直線とネームプレートを使って自分の思いはどのくらいであるのかを表現をさせ、その機微を全体で共有するようにした。なぜその位置なのかを問うことにより、児童の考えを詳しく引き出すことを目指した。

平成30年度

(教科化にあたり)昨年度までの取組を大切にしつつ、まずは教科書会社の指導書と同じように授業を考え、そこからどのような工夫をしていくべきかを検討した。

令和元年度

心の数直線を活用した二項対立の授業とは違った方法に挑戦するようにした。主人公の迷いについて「友情、信頼」の視点で出てきた意見を分類しながら整理し、その根拠を問うていくことにより児童の経験、体験を引き出し、友達のためにはどういう行動をするのがよいか話合いを深めるようにした。

令和2年度

教える、教えないと立場を決めさせることよりも主人公の迷いに共感させることを大切にした。そして、その迷いの中から「やっぱり知らせよう」と決心した主人公の思いについて対話を深めることで、知らせても大丈夫と思えるだけの相手を信じる心に気づかせ、友達なら教えるべきという思いだけではなく、「あの正子なら大丈夫」というように相手のことを信頼しているからこそ伝えることができることに気づかせ、相手のことを思うだけでなく信頼することのよさを感じられるようにした。

 

 報告を読み進めると、研究を始めた頃は二項対立による対話により活発な発言が見られましたが、そこからの価値理解の深まりには至らなかったことが分かります。どちらが正しいのかという思考に陥りやすかったり、自分の意見に固執してしまう児童も多かったようです。

 そこで、内容項目「友情、信頼」の理解を先生方がさらに深めようとされました。そこから導き出されたことが、「相手のことを信頼しているからこそ伝えることができることに気づかせ、相手のことを思うだけでなく信頼することのよさを感じられる」授業を設計することの大切さでした。

 また、事前アンケートを通して、児童は仲よくしたり助け合ったりすることの根底にある「相手への理解や信頼」についてはまだ考えが及んでいないことも分かりました。

 教師自身の価値理解の深まりと児童理解をもとに、まさに中学年の「友情、信頼」の内容である「友達と互いに理解し、信頼し、助け合うこと」を理解させるための授業構成を導き出されたようです。

 日本文教出版の「道徳科『深い学び』のための内容項目ハンドブック」には、中学年の「友情、信頼」のポイントとして、「友達との関係は双方向であり、相手が自分の気持ちを大切にしてくれるのは、自分が相手の気持ちをどれだけ大切にしているか、相手が信頼してくれるのは、自分がどれだけ相手を信頼しているか次第なのです」と書かれています。本研究の令和2年度の授業は、まさに「自分がどれだけ相手を信頼しているか」に焦点を当てる授業になっているように感じました。

 さて、本研究のすばらしいところは、仮説をもとに様々な授業構成に積極的に取り組まれたところだと私は思っています。従来の授業構成に捉われず、今後もこのような研究が全国各地で生まれることを期待しています。


《参考引用文献》

『第57回全国小学校道徳教育県大会鹿児島大会 研究冊子』(2021)

島恒生『道徳科「深い学び」のための内容項目ハンドブック』(日本文教出版,2020)

2021/12/16

選好と深い理解


 本日は松下良平編著の『新・教職課程シリーズ 道徳教育論』を読んだ感想をまとめていきます。

 本書の第7章で、千葉大学助教(執筆当時)の市川秀之氏が「深い学び」について論じています。(以下、一部抜粋)

『松下良平に従えば、深い理解とは、理由のみではなく選好(行為の結果に対する価値づけ)も含んだ理解を指す。たとえば、「◯◯してはいけない」という禁止の深い理解は、なぜその行為をしてはいけないのかという理由に加え、それをした場合にもたらされる事態の否定的な価値づけも含んでいる(『知ることの力』)。』

(以上)

 このことについては、先述した大阪体育大学の髙宮正貴氏の主張である『すでに感情的には大切さを実感できていることであっても、その大切さを改めて知的に理解することが「道徳的価値の自覚」につながる』ということと同意であると理解します。

 さて、市川氏は、これからの道徳授業において、徳目(いわゆる内容項目)を一方的に教えるだけでは不十分であるとしています。なぜなら、グローバル化する世界において共に生きる際には、多様な人々の置かれた状況や利害関係などを知り、それらと自らの意見を突き合わせながら道徳の内実および妥当性を決めていかなければならないからだと説明しています。

 日々の道徳科授業においては、児童生徒が自らの意見や選好を見直し、必要であればそれらを修正するよう促す以下の①〜③のようなアプローチを求めています。


①(話し合いを通して)自らの意見やそれを支える選考の明確化

②(話し合いや文章作成を通して)必要であればそれらを変容させること

③上記を通して、我々は何をなすべきか、またそれはなぜかについての深い理解を獲得し、共に生きるための道徳を創出する。


 このことから分かることは、学びの過程において「話し合いを通す」という学習活動が大事にされているということです。道徳科授業において「考え議論する」ことが求められているのは、このことに関係しているのでしょう。そのために教科書教材があり、様々な学習活動が工夫されるべきなのです。

 もちろん、こうしたアプローチが常に成功するとは限らないことも市川氏は述べています。意見の対立が解消されなかったり、選好の変容が起こらなかったりする場合も起こり得ます。しかし、「互いの理由づけや選好の確認に終わったとしても、学習者が自らの道徳性を客観視する機会を得たのであれば、道徳教育の意義はあると言える」という説明もしています。

 「今日の授業は深まらなかった」という感想を聞くこともあります。その「深まり」の判断をしているのは教師です。もしかしたら、その授業は子供たちにとって自らの道徳性を明確・客観視できたことに大きな意義のあった授業なのかもしれません。そのようなことも日々意識しておきたいものです。


《引用参考文献》

松下良平編著『新・教職課程シリーズ 道徳教育論』(2014,一藝社)

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(北大路書房,2020)