2022/01/04

感受性を育てる


「道徳の授業って、何を勉強するのですか?」と尋ねられた際、「『心』について勉強する時間ですよ」と応えたことはないでしょうか。では、子供たちが学ぶ『心』とは、どのようなものをいうのでしょうか。

 村上敏治は、著書「道徳教育の構造」のなかで以下のように述べています。

(以下、抜粋)

たいていの場合はそれぞれの教育活動の学習過程に応じ、あるいは教材を通じ、また、教師と児童生徒との関係、児童生徒同士の人間関係を通じて、偶発的に、また、特殊な場面において道徳的経験が獲得される。しかし、生活の全領域にわたって、価値的または反価値的な道徳的経験が充満していても、それをひとりひとりの内面において受け止めて、それを真に道徳的経験として生かしていくだけの主体的な心の用意、いいかえれば道徳的感受性がみがかれていなければ、それらの経験は雲散霧消し、見過ごされる。生活の諸経験を統合する主体としての内的感受性のないところには全生活的な人生経験として生かされることは不可能である。

(以上)

 村上氏は、道徳授業において学ぶ『心』を「道徳的感受性(主体としての内的感受性)」としています。

 この「感受性」について、私は「日常にある道徳に気づく力」と呼ぶことにします。日々の生活の中で、私たちはたくさんの道徳的経験を重ねています。「誰かにあいさつをしてもらうこと」「座席をゆずろうか迷うこと」「努力をしたり粘り強く課題に取り組むこと」「花を見て美しいと感じること」などです。そのような身近な出来事に込められた道徳的なよさや難しさを実感できる力こそ、「日常にある道徳に気づく力」であり、いわゆる感受性ということができるでしょう。

 諸々の行為は「自覚」という過程を経て道徳的行為となり得ます。その自覚という過程こそ道徳科授業の役割であり、「日常にある道徳に気づく力(見方・考え方)」を育む授業こそ「心を育てる道徳授業」といえるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

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