道徳科の目標に「自己を見つめる」「自己(人間として)の生き方についての考えを深める」という文言があります。このことから、道徳科授業では自らの視点を自らに向けさせることが大事になります。
しかし、「自分について考えなさい」といったところで、それは困難であることは明確です。このことについて、村上敏治は著書『道徳教育の構造』のなかで以下のように述べています。
(以下、抜粋)
自分で自分を見つめる、自分について考えるといっても、何の媒介もなしにできることではない。人間の視線はもともと外交的のものであって、他人のことは眼についても、自分のことには気づかないし、自分のことをたなにあげて他人のことをあげつらうことになりがちである。直接に自己を見つめることはほとんど不可能である。他人の話を聞いたり、他人に注意されたり、他人の行為を見たりして、自分のことに気づいたり、われにかえったりする。外に向かう人間の視線を自らの内に向けるためには何らかの他者の媒介を必要とする。
(以上)
村上氏は、人間の視線を自らの内にむけさせるためには、何らかの他者の媒介が必要だとしています。この「他者の媒介」こそ、道徳科授業における「教材」であり、「道徳的諸価値の理解」であり、そして「他者(教師や級友)との対話」であるといえるのではないでしょうか。道徳科授業を構成する教材や活動、展開や学習活動は、その全てが児童生徒自身の自らの内に視線を向けさせるための手立てということができそうです。
また、村上氏は「他者が正しく理解できてこそ自己を知ることができるのであり、自己を正しく知ることができるようになって、真に他者を正しく理解することができる」とも述べています。
道徳科授業では「価値理解・人間理解・他者理解」の三つの理解が重要とされています。この三つの理解のうち、私は「他者理解」に少し違和感をもっていました。他者(この場合の他者とは、授業者や級友のことを指していると理解しています)を理解することが、道徳科授業においてどれぐらい重要なのかを曖昧に理解していました。しかし、他者を正しく理解することが自己を知ることにつながるという村上氏の論を知ることで、「なるほど!」と納得することができました。
他者を理解するということについて、その理解のみを目的としてしまうのではなく、他者のことを正しく理解しようとする自己に目を向けさせる(自らの葛藤や道徳的経験を振り返らせる)。それが自己の正しい理解につながるのだと、このように納得しています。
《引用参考文献》
村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)
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