2022/01/11

確かな価値認識


 村上敏治氏の『道徳教育の構造』に、以下のような記述があります。

(以下、抜粋)

局限され抽象された場面での価値経験についても、一応は、よい・わるいの価値判断はなされる。そもそも判断は、文字の示す通り、わけることであり、わけられてこそわかるのである。しかし、それが局部的抽象的場面においてでなく、さまざまの具体的経験が加わって具体的場面におかれてみると、かならずしもわけれらない。すなわち、わけがわからなくなるのである。「ほんとうによいと思うか」と問いつめられると「わからない」ということになる。ここに全体的な価値認識を深め、たしかなものにしていくべき課題がある。単純な価値経験が、たしかな価値認識に到達する過程には、知的な思考による反省が加えられなければならない。一応はよい・正しいと思われたことが、かならずしもよくない、もっとよい・正しいことのあることを知って、さきの価値認識の評価が行なわれなければならない。さきの価値経験に対する自己評価である

(以上)

 「さきの価値経験に対する自己評価」という文言こそ、道徳科における授業展開を表現している言葉であると感じました。

 教材の中の道徳的課題に対して、授業者はその価値判断を問います。その課題は限られた場面状況での判断となりますが、一応のよい・わるいは判断できます。村上氏はこの場合の判断を『単純な価値経験』としています。もしここでの判断で授業を終えてしまっていると、おそらくは「いいことだけを発表する授業」となってしまうでしょう。

 教材の場面は局部的抽象的場面であるので、そこに具体を加える必要があり、そうすることで生まれる「わからない」が『たしかな価値認識』につながると村上氏は述べています。この場合の「具体」とは、「判断の未来を考えさせる」「自分ごととして考えさせる」「条件を加える」「自己の経験を想起させる」「他者や過去者と比較する」などの手立てが考えられます。そして、これらの手立てが「さきの価値経験に対する自己評価」となるのです。

 このように考えると、道徳科授業における「補助発問」とは、児童生徒が行った単純な価値経験を自己評価させるためのものだといえるのではないでしょうか。道徳科授業は思考の矢印を自分に向けさせることを大事にします。そのためには、補助発問を通して自己評価を促すという授業者の心構えが必要になるのでしょう。

 

《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

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