読み物教材(資料)をなぞるだけの授業に対する批判をよく聞きます。では、読み物教材を使う必然性はどこにあるのでしょうか。
このことに関して、村上敏治の著書「道徳教育の構造」を参考にして考えてみます。
(以下、抜粋)
道徳の時間の指導において活用される資料は、すべて他者の経験の世界である。そのような具体的な生き方を示す資料を学習することを通して、自己の経験をそれと照応し、自己のあらたな経験として自己統一するとき、道徳の時間の指導が成り立つ。
(以上)
村上氏は「資料=他者の経験」という認識のもと論を述べています。なるほど、私たちは教材研究と称して「資料(教材)」を深く理解しようと日々精進しています。その際、教材を一つの読み物として認識していると、どうにも自分と教材の間に壁や溝があるように感じてしまいます。そこで、教材を他者の経験として捉えてみるとどうでしょうか。他者の喜びや悲しみがより自分ごととして感じられる気がします。
上記のことは私の感覚的なものなのかもしれません。しかし、心のどこかで「道徳の教材はつまらない」と思っている人はいないでしょうか。「話の流れが全部同じ」だと嫌っている人はいないでしょうか。
しかし、「教材=他者の経験」と認識すると、他者の経験がつまらないとは何と失礼なのでしょうか。同じような展開であっても、その他者の葛藤や決断が同じはずはありません。そう考えると、私たちが使っている教科書にも他者の経験がたくさん詰まっています。教科書は、その他者の経験を通して自分の道徳性を映し出してくれる姿見のようなものであるということができるのではないでしょうか。
また、村上氏は以下のようにも述べています。
(以下、抜粋)
積極的に大きな高い他者の世界を見て自己に取り入れ自己統一を行う力が、道徳教育において養われるべき道徳力である。小林秀雄氏の次のことばはその意味において示唆に富んでいる。「ほんとうにいい交わりのできないひとは、ほんとうに、純粋にひとりになりきれやしないよ。他人に心から協力しようとする気のないひとには、自分に対してだって、協力できないから、自己統一の力がないことになるのだ。だから、利己主義という自己防衛の形になってしまうのだ」
(以上)
これを言い換えると、「教材(他者)について深く考えられないひとが、自分について深く考える力を身につけることはできない」といえるでしょう。
道徳科授業における「教材」のあり方について、私たちは今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。なお、今回の記事につきまして、上述の「資料」と「教材」は同意のものとご理解ください。
《引用参考文献》
村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)
0 件のコメント:
コメントを投稿