身近でわかりやすい教材だったけれど、子供たちは真剣に考えなかった。そのような授業経験はないでしょうか。私は幾度もそのような経験があります。逆に、難しいと感じていた教材なのに、子供たちは積極的に考えようとしていたということもあります。
このことについて、
(以下、著書より抜粋)
主題は課題でなければならないというとき、当然ながら、それにふさわしい課題性をもつべきではあるが、同時に、それにともなう切実性と親近性を含まなければならない。すなわち、道徳指導における主題の内容は、親近性・切実性・課題性を含むことによって、はじめて課題となることができる。道徳教育全般にわたって、今日、教師の方に、いわゆる「身近な」ということについての過剰な執着が、依然としてある。教師の側から見て、いわゆる「身近な」問題であると思われるものが、児童生徒にとって、卑近な日常のことである限り、そこに切実性と課題性を含まないために、学習意欲が生じるはずがない。たとえば「友情」とか「家族愛」とか「規則を守る」とかいうような主題が、身近な主題であり、「国民的自覚」「人類愛」「美と崇高」に関する主題が、児童生徒のいわゆる実態から遠いと思われたりするのは、教師のひとりぎめであって、前者の友情・家族愛・規則秩序の尊重などは、前述の友情の本質から見てもわかるように、かえって輪郭を明確にすることの難しい主題であり、内容の構成をよほどよく吟味しないと、切実性も課題性も欠落することが多い。それに比べると、後者の一連の主題は、一見、遠望しなければその輪郭を捉えることができないだけに、かえって、自己の身近に近づけて課題化することができやすい。ここでも私のいう「近いものが遠く、遠いものが近い」という論理をあてはめることができる。
(以上)
村上氏は、親近性・切実性・課題性を含むことではじめて教材の主題が『課題』となると述べています。日々の授業のなかで、この三つの条件を私たちはどのぐらい意識できているでしょうか。教科書教材をそのまま授業するだけでは、おそらく切実性や課題性を子供たちに感じさせることはできないでしょう。偉人教材などは親近性を感じさせることが難しいかもしれません。この三つの条件を常に意識して授業展開や発問を考えていきたいものです。
《引用参考文献》
村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)
0 件のコメント:
コメントを投稿