「子供たちが本音を言わない」という授業者の悩みを聞くことがあります。この場合の「子供の本音」とは、どのようなものを指しているのでしょうか。
多くの場合、道徳科授業における「子供の本音」とは、「〜できない(していない)自分」についての発言を指しているのではないかと考えます。要するに、多くの授業者は「きれいごと」を求めていないのです。
では、「きれいごと」は道徳科授業において不要なのでしょうか。このことについて、村上敏治氏は以下のように述べています。
(以下、著書から抜粋)
児童生徒に本音をはかせるにはどうしたらよいかとか、なかなかほんねを言わないとかということが発問に関してよく言われる。道徳授業の特質からいってこれには大いに疑問がある。何よりも、児童生徒の本心が道徳性から見て悪に充ち満ちていて、ことばだけできれいなことをいう、児童生徒はことばでごまかしたり粉飾したりするものだという前提があるかぎり、真の道徳教育はあり得ない。かぎられた話し合いの範囲で、しんけんに応答していることばから本音を洞察してやることこそが教師の力量である。とくに中学生段階において、自己の私生活に関する問題について、一斉授業のかたちをとる道徳授業において、臆することなくしゃべる生徒があるとするならば、そういう傾向こそ、道徳性から見て問題がある。そしてよく考えて見れば、ほんねとたてまえを区別するのは、成人になってからである。ほんねとたてまえが異なるというのは、おとなとしての教師の先入観にすぎないのであって、とくに、小学校段階では、児童生徒がほんねとたてまえを区別して発言するなどということは、あり得ないと考える方が真実に近い。ほんねとたてまえのちがいについて、教師はあまりにも意識過剰である。ましてや、児童生徒の心の奥底に秘めた、道徳的欠点や弱点を言わせることが、ほんねを吐かせることだと考えているならば、道徳の授業は、検察的取り調べになり終わる。
(以上)
私たち教師は、子供たちの何を観ているのでしょうか。、「しんけんに応答していることばから本音を洞察してやること」が教師の役割であると村上氏は述べています。これは、精神医療におけるオープンダイアローグの視点から考えると、「暗黙の前提(ドミナント・ストーリー)」に気づかせることと同意であると考えます。対話を通して自身の道徳性に気づかせることになります。教師は目の前の子供に対して自らが無知な存在であると自覚し、その子供の意見を真剣に聞くことが求められているのでしょう。
《引用参考文献》
村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)
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