アメリカの心理学者ハーレン・アンダーソンらは、慎重な無知とでもいう立場で他者と対話します。彼らは自分たちの実践や教育は「何も知らない」という姿勢に由来するものだと言います。
この立場の人々は、知識は人々の相互作用のそれぞれの瞬間に変化し更新されるものであると考えているようです。この見方に立つセラピストは、より役に立つ新しい物語が会話のなかで浮上してくるのを期待しますが、それは計画されたものではなく自然に生まれるものと考えています。このことは、「会話こそが物語の著者となる」と表現されています。
このモデルにおける「無知」の良い例は、ノルウェーのトム・アンデルセンらが開発したインタビューの仕方です。彼らの質問やコメントの特徴は、家庭的でためらいがちだったり、長く続く沈黙があったりするということです。彼らの発言には、「ということもあるのでは?」とか、「もしそうだとしたら?」といった言い回しがよく見られます。このインタビューの仕方こそ、専門家としての自己を慎重に消し去ること、クライエントの参加と創意を促すことを最もわかりやすい形で表すものだとしています。
さて、話題を道徳科授業における対話につなげます。「何も知らない」という姿勢こそ、やはり私たち教師が大切にしなければならない姿勢だと考えます。学級にいる子供たちのことを私たちは何も知らない。だから、もっとあなたのことを教えてほしい。その思いを、私たちは大事にすべきなのです。
また、「専門家としての自己を慎重に消し去る」という発言(質問)の方法にも注目したいと思います。例えば、私たちは中心発問や補助発問という形で子供たちに質問を投げかけます。その発問は事前に準備されたものであり、授業者が正解をもっているものになります。その正解を子供たちが発言をしたら、授業者や参観者は「よい授業だった」「ねらいを達成した」と評価しがちです。
しかし、そのような授業は本当に「よい授業」なのでしょうか。中心(補助)発問で生まれた発言に対して、目の前の子供たちがどのようなことを感じるのか、私たちは無知であるという姿勢で、さらに問う必要があると考えます。子供たちの発言に対して、「ということもあるのでは?」「もしそうだとしたら?」と尋ねることで、新しい物語(道徳科授業での新しい学び)を生み出すのです。
《引用参考文献》
シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編 野口裕二・野村直樹訳『ナラティブ・セラピー 社会構成主義の実践』(1997,金剛出版)
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