道徳科授業は「主体的・対話的で深い学び」が求められています。ここでは、ロシアの哲学者ミハイル・バフチンの対話論をもとに、道徳科授業における対話のあり方について考えてみます。
バフチンによると、「対話」は、ことばを用いて「向かい合って話しあう」場合のみをさしているわけではありません。ことばを用いるかどうかではなく、ひとが相手に呼びかけ、相手がそれに応答するような関係一般をさしているということです。
また、バフチンは、対話的関係なくしては、ひとはあるがままの自分になることすらできないと述べています。対話では、人間は外部に自分自身をあきらかにするだけではなく、あるがままの自分にはじめてなれると述べています。
「あるがままの自分になれる」というバフチンの考え方は、道徳科受業での「自己をみつめる」につながります。教材からのメッセージや友達の考え方に対して応答をするという過程のなかで、子供たちははじめて自分の考え方を自覚できるということです。
《引用参考文献》
桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)
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