「ことば」というものは、話し手だけでなく聴き手も能動的であることで初めて成り立つというのが、バフチンの立場です。このことを、「ことばは、わたしと他者とのあいだに渡された架け橋」と表現しています。その架け橋の片方の端をわたしが支えているとすれば、他方の端は、話し相手が支えているということです。そして、架け橋としての支え合いがあるからこそ、両者のあいだ(架け橋のうえ)で意味の更新が生じる、あるいは少なくともその萌芽があらわれると、バフチンは述べています。
また、話し手より聴き手のほうが能動的であるということが、バフチンの対話論の大きな特徴になるようです。なぜなら「ことばにとって(人間にとって)応答がないことほど、おそろしいことはない」からです。反対意見が出るよりももっとこわいのは、応答そのものすらないことであり、その時、話し手は応答するに値する「人格」とすらみなされていないことになります。
話し手は、常に聴き手に注目しています。このことは、聴き手の視野、聴き手の世界に注目していることにほかなりません。自分の発言が聴き手によって新しい視野の中に移されることを期待しているということになるようです。わたしと他者との「不協和」すら、わたしを「豊かに」してくれる可能性があるからです。
このバフチンの対話論から考えられることは、教室の中に対話を生み出すためには、聴き手の能動性を育てることに注力するということです。ただし、「しっかり聞きなさい!」と指導するだけでは不十分です。対話は架け橋であるということを意識させるとともに、話し手の視点を、聴き手自らの視野、自らの世界に移す経験を重ねさせることが必要になるでしょう。道徳科授業で、他者の経験や思考を自分ごととして捉えさせることの重要性が、ここにあるといえます。道徳科授業は、ことばの架け橋を構築する時間であり、決して教師の一方的な指導の場ではないということです。
《引用参考文献》
桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)
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