2022/08/21

対話とは何か(4)〜一方的な説明は他者を閉じ込める バフチンの対話論より〜


 「ことば」というものは、話し手だけでなく聴き手も能動的であることで初めて成り立つということを紹介しました。それでは、聞き手の能動性がない場合はどうなるのでしょう。

 一方的な説明(モノローグ)について、教師の高圧的な指導をイメージするとわかりやすいかもしれません。高圧的な指導の場合、教師は自らの外部に、対等に応答しようとする存在(他者)があることを否定しています。説明(モノローグ)は完結したものとして伝えられ、他人の応答に耳をかさず、応答を受け付けようとしません。一方的な説明(モノローグ)は、教師の描いた世界に児童生徒を閉じ込めてしまうのです。

  このような一方的な説明では決して「理解」は生まれないというのがバフチンの主張になります。「理解」について、バフチンは「両者の間に新たな意味が生み出される」場合を指しています。一方的な説明では、話し手にも、聴き手にも、新たな意味は生まれず、そのような状態を対話と呼ぶことはできないということです。

 教育の場、特に道徳科授業では、対話的関係の中から新たな意味が生まれるかどうかが大変重要だと私は思っています。答えの決まっている授業、教師の一方的な説話で終わる授業は、決して対話的ではありません。やはり、聴き手の能動性が重要になります。また、教師自身も「ことばの架け橋」の一端を支えている立場であり、子供たちのことばを能動的に聴こうとする意識が必要なのです。


 《引用参考文献》

桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)

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