ロシアの哲学者ミハイル・バフチンは、あらゆる関係(ことばのやりとりを含む)のなかに対話的関係を見てとっています。そして、わたしたちは自ずと対話的関係の中で生きているということを何度も繰り返し主張しています。
しかし、実際には、個による一方通行的な見方を優先する「モノローグ主義」が私たちに
染み込んでいるようです。相手を対等な人格とみなさず、一方的に決定づけてしまうようなかかわり方です(うわさ話など、相手が眼の前にいないような状況においては、なおさらそうなりがちです)。
このような「モノローグ主義」を、バフチンはひときわおそれていました。当人のいないようなところで、その人のことを評価する。とりわけ、どのような人間であるか決定づけてしまうようなことは、言語道断であるとしています。それは、ひとを、「人格」としてではなく、「モノ」として扱っていることになると、バフチンは述べています。
さて、道徳科教材の登場人物を私たちは「人格」として扱っているのか、それとも「モノ」として扱っているのか、どちらでしょうか。多くの教材は、実際の出来事(人物の言動)をもとに作成されています。作り話の教材も、作者の生き方や考え方をもとに描かれています。教材の奥には、ひとがいます。そして、教材には「人格」があるはずなのです。
しかし、私たちは完結された「モノ」として道徳科教材を評価しているように感じます。日々の授業が、登場人物「と」語り合う時間ではなく、登場人物「について」語り合う時間になってしまっているというわけです。要するに、登場人物についてうわさ話をさせているということであり、子供たち(教師)の一方的な見方で決めつけてしまうかかわり方をさせていることになります。
ここに、道徳科授業において「自我関与」が大事だとされている理由を見つけることができそうです。「もし自分なら」「なぜ、このような言動をしたのだろう」と意識をさせることで、登場人物と語り合う時間にする。そのために、授業者は発問や展開を工夫したり、役割演技を取り入れたりするのです。
登場人物を完成した「モノ」と捉えさせるのではなく、未完成な「人格」として捉えさせる(まずは教師がそのように捉えて授業をつくる)。道徳科授業における教材との対話で大事にしたい考え方ではないでしょうか。
《引用参考文献》
桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)
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