2022/08/30

「告白もの教材」の扱い方について〜卒業文集最後の二行〜


 岩手大学の佐々木哲哉は、中学校道徳科の教材『卒業文集最後の二行』を、自らの過ちや失敗経験を赤裸々に告白する「告白もの教材」と呼んでいます。

 『卒業文集最後の二行』は、いじめ問題を扱った教材です。佐々木は、自らが現職の頃、教材の意味や告白の本意がきちんと理解されないまま道徳の授業が行われていると疑問を感じることも少なくなかったと述べています。

 さて、佐々木は、告白もの教材の特質を以下のようにまとめています。

(以下、引用参考文献を参照)

【「創作もの教材」との違い】

「告白もの教材」は、あらかじめ道徳教材として作られていないので、発問や展開を想定しにくい。また、回想によりその時の誤った行動や心情を深く見つめて厳しく自分を責める表現が見られる。こうした表現は他の教材では見られない。


【「告白もの教材」に対する誤解や偏見】

 「告白もの教材」は、過去の過ちや失敗を赤裸々に表明しているだけに、筆者はよくない行為をした人といった見方をされ、心情や判断力が欠如した人物として判断されやすい。それゆえ、反面教師的な取り上げ方など、本来の生かし方ではない、全く違った形での指導が行われやすい傾向がある。

(以上)

 「反面教師的な取り上げ方など、本来の生かし方ではない指導」という論に、私はハッとさせられました。佐々木氏が提唱する「告白もの教材」において、告白者を非難することは簡単です。しかし、その非難から何が生まれるのでしょうか。過ちを犯した者は無条件に非難してもよいという心を育ててしまうだけだと、この論を読んで思いました。


《引用参考文献》

日本道徳教育学会第99回大会(令和4年度春季大会)プログラム・発表要旨集

2022/08/29

「変化」とは?


 ハーレーン・アンダーソンは、セラピーにおける「変化」について以下のように述べています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 セラピーにおける変化とは、新しい物語を対話によって創造することであり、それゆえ、新たな主体となる機会を拡げることである。物語が変化をもたらす力をもつのは、人生の出来事を今までとは異なる新しい意味の文脈へと関係づけるからである。人は、他者との会話によって育まれる物語的アイデンティティのなかで、そして、それを通して生きる。「自己」は常に変化し続けており、それゆえ、治療者の技能とは、このプロセスに参加する能力を意味する。

(以上)

 上記の「セラピーにおける変化」を、「道徳科授業における児童生徒の変容」と置き換えてみます。人は「語る」ことによって、過去の出来事に新たな意味をもたせることができます。この場合の「語る」は、決して言葉として発することだけではなく、自己の心の中での対話を通して自分の考え方や過去の経験を見つめることも含まれると考えます。

 それゆえ、道徳科授業では「自己を語る」という時間がとても重要になります。ただし、自分の生活経験や家族のことをそのまま語ることには抵抗があります。そこで、教材の人物になって「きっと◯◯は〜と思っている」と発言をしたり、「〜はできないよね。でも・・・。」と人間(自分)の弱さに気づかせたりする必要があるのです。そうすることで、自らを見つめさせ、過去の経験に新たな意味をもたせるとともに、今後の生き方を考えさせることにつなげるのです。


 《引用参考文献》

シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編 野口裕二・野村直樹訳『ナラティブ・セラピー 社会構成主義の実践』(1997,金剛出版)

2022/08/28

「問題」とは?


 ハーレーン・アンダーソンは、「問題」について以下のように述べています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

セラピーで扱われる問題は、われわれの主体性や自由の感覚を損なうようなかたちで表現された物語である。問題とは、自分で適切な行為ができそうもない事態に対して意義を唱えるものである。それゆえ、問題は言葉のなかに宿り、その意味が引き出されてくる物語の文脈に固有のものである。

(以上)

 道徳科授業でも「道徳的問題」や「問題解決的な学習」、問題意識など、「問題」という用語が使われることが多々あります。ハーレーン・アンダーソンの論をもとにすると、

問題とは、児童生徒の主体性や自由の感覚を損なうようなかたちで表現された物語であり、自分で適切な行為ができそうもない事態に対して意義を唱えるもの。

となります。


 《引用参考文献》

シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編 野口裕二・野村直樹訳『ナラティブ・セラピー 社会構成主義の実践』(1997,金剛出版)

2022/08/26

ためらいがちな質問〜慎重な無知による会話〜


 アメリカの心理学者ハーレン・アンダーソンらは、慎重な無知とでもいう立場で他者と対話します。彼らは自分たちの実践や教育は「何も知らない」という姿勢に由来するものだと言います。

 この立場の人々は、知識は人々の相互作用のそれぞれの瞬間に変化し更新されるものであると考えているようです。この見方に立つセラピストは、より役に立つ新しい物語が会話のなかで浮上してくるのを期待しますが、それは計画されたものではなく自然に生まれるものと考えています。このことは、「会話こそが物語の著者となる」と表現されています。

 このモデルにおける「無知」の良い例は、ノルウェーのトム・アンデルセンらが開発したインタビューの仕方です。彼らの質問やコメントの特徴は、家庭的でためらいがちだったり、長く続く沈黙があったりするということです。彼らの発言には、「ということもあるのでは?」とか、「もしそうだとしたら?」といった言い回しがよく見られます。このインタビューの仕方こそ、専門家としての自己を慎重に消し去ること、クライエントの参加と創意を促すことを最もわかりやすい形で表すものだとしています。

 さて、話題を道徳科授業における対話につなげます。「何も知らない」という姿勢こそ、やはり私たち教師が大切にしなければならない姿勢だと考えます。学級にいる子供たちのことを私たちは何も知らない。だから、もっとあなたのことを教えてほしい。その思いを、私たちは大事にすべきなのです。

 また、「専門家としての自己を慎重に消し去る」という発言(質問)の方法にも注目したいと思います。例えば、私たちは中心発問や補助発問という形で子供たちに質問を投げかけます。その発問は事前に準備されたものであり、授業者が正解をもっているものになります。その正解を子供たちが発言をしたら、授業者や参観者は「よい授業だった」「ねらいを達成した」と評価しがちです。

 しかし、そのような授業は本当に「よい授業」なのでしょうか。中心(補助)発問で生まれた発言に対して、目の前の子供たちがどのようなことを感じるのか、私たちは無知であるという姿勢で、さらに問う必要があると考えます。子供たちの発言に対して、「ということもあるのでは?」「もしそうだとしたら?」と尋ねることで、新しい物語(道徳科授業での新しい学び)を生み出すのです。


 《引用参考文献》

シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編 野口裕二・野村直樹訳『ナラティブ・セラピー 社会構成主義の実践』(1997,金剛出版)

2022/08/21

対話とは何か(4)〜一方的な説明は他者を閉じ込める バフチンの対話論より〜


 「ことば」というものは、話し手だけでなく聴き手も能動的であることで初めて成り立つということを紹介しました。それでは、聞き手の能動性がない場合はどうなるのでしょう。

 一方的な説明(モノローグ)について、教師の高圧的な指導をイメージするとわかりやすいかもしれません。高圧的な指導の場合、教師は自らの外部に、対等に応答しようとする存在(他者)があることを否定しています。説明(モノローグ)は完結したものとして伝えられ、他人の応答に耳をかさず、応答を受け付けようとしません。一方的な説明(モノローグ)は、教師の描いた世界に児童生徒を閉じ込めてしまうのです。

  このような一方的な説明では決して「理解」は生まれないというのがバフチンの主張になります。「理解」について、バフチンは「両者の間に新たな意味が生み出される」場合を指しています。一方的な説明では、話し手にも、聴き手にも、新たな意味は生まれず、そのような状態を対話と呼ぶことはできないということです。

 教育の場、特に道徳科授業では、対話的関係の中から新たな意味が生まれるかどうかが大変重要だと私は思っています。答えの決まっている授業、教師の一方的な説話で終わる授業は、決して対話的ではありません。やはり、聴き手の能動性が重要になります。また、教師自身も「ことばの架け橋」の一端を支えている立場であり、子供たちのことばを能動的に聴こうとする意識が必要なのです。


 《引用参考文献》

桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)

2022/08/20

対話とは何か(3)〜「ことば」とは架け橋である バフチンの対話論より〜


 「ことば」というものは、話し手だけでなく聴き手も能動的であることで初めて成り立つというのが、バフチンの立場です。このことを、「ことばは、わたしと他者とのあいだに渡された架け橋」と表現しています。その架け橋の片方の端をわたしが支えているとすれば、他方の端は、話し相手が支えているということです。そして、架け橋としての支え合いがあるからこそ、両者のあいだ(架け橋のうえ)で意味の更新が生じる、あるいは少なくともその萌芽があらわれると、バフチンは述べています。

 また、話し手より聴き手のほうが能動的であるということが、バフチンの対話論の大きな特徴になるようです。なぜなら「ことばにとって(人間にとって)応答がないことほど、おそろしいことはない」からです。反対意見が出るよりももっとこわいのは、応答そのものすらないことであり、その時、話し手は応答するに値する「人格」とすらみなされていないことになります。

 話し手は、常に聴き手に注目しています。このことは、聴き手の視野、聴き手の世界に注目していることにほかなりません。自分の発言が聴き手によって新しい視野の中に移されることを期待しているということになるようです。わたしと他者との「不協和」すら、わたしを「豊かに」してくれる可能性があるからです。

 このバフチンの対話論から考えられることは、教室の中に対話を生み出すためには、聴き手の能動性を育てることに注力するということです。ただし、「しっかり聞きなさい!」と指導するだけでは不十分です。対話は架け橋であるということを意識させるとともに、話し手の視点を、聴き手自らの視野、自らの世界に移す経験を重ねさせることが必要になるでしょう。道徳科授業で、他者の経験や思考を自分ごととして捉えさせることの重要性が、ここにあるといえます。道徳科授業は、ことばの架け橋を構築する時間であり、決して教師の一方的な指導の場ではないということです。


《引用参考文献》

桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)

2022/08/16

対話とは何か(2)〜登場人物を「人格」として捉える バフチンの対話論より〜


 ロシアの哲学者ミハイル・バフチンは、あらゆる関係(ことばのやりとりを含む)のなかに対話的関係を見てとっています。そして、わたしたちは自ずと対話的関係の中で生きているということを何度も繰り返し主張しています。

 しかし、実際には、個による一方通行的な見方を優先する「モノローグ主義」が私たちに

染み込んでいるようです。相手を対等な人格とみなさず、一方的に決定づけてしまうようなかかわり方です(うわさ話など、相手が眼の前にいないような状況においては、なおさらそうなりがちです)。

 このような「モノローグ主義」を、バフチンはひときわおそれていました。当人のいないようなところで、その人のことを評価する。とりわけ、どのような人間であるか決定づけてしまうようなことは、言語道断であるとしています。それは、ひとを、「人格」としてではなく、「モノ」として扱っていることになると、バフチンは述べています。


 さて、道徳科教材の登場人物を私たちは「人格」として扱っているのか、それとも「モノ」として扱っているのか、どちらでしょうか。多くの教材は、実際の出来事(人物の言動)をもとに作成されています。作り話の教材も、作者の生き方や考え方をもとに描かれています。教材の奥には、ひとがいます。そして、教材には「人格」があるはずなのです。

 しかし、私たちは完結された「モノ」として道徳科教材を評価しているように感じます。日々の授業が、登場人物「と」語り合う時間ではなく、登場人物「について」語り合う時間になってしまっているというわけです。要するに、登場人物についてうわさ話をさせているということであり、子供たち(教師)の一方的な見方で決めつけてしまうかかわり方をさせていることになります。

 ここに、道徳科授業において「自我関与」が大事だとされている理由を見つけることができそうです。「もし自分なら」「なぜ、このような言動をしたのだろう」と意識をさせることで、登場人物と語り合う時間にする。そのために、授業者は発問や展開を工夫したり、役割演技を取り入れたりするのです。

 登場人物を完成した「モノ」と捉えさせるのではなく、未完成な「人格」として捉えさせる(まずは教師がそのように捉えて授業をつくる)。道徳科授業における教材との対話で大事にしたい考え方ではないでしょうか。


《引用参考文献》

桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)

2022/08/15

対話とは何か(1)〜あるがままのじぶんになる バフチンの対話論より〜


 道徳科授業は「主体的・対話的で深い学び」が求められています。ここでは、ロシアの哲学者ミハイル・バフチンの対話論をもとに、道徳科授業における対話のあり方について考えてみます。

 バフチンによると、「対話」は、ことばを用いて「向かい合って話しあう」場合のみをさしているわけではありません。ことばを用いるかどうかではなく、ひとが相手に呼びかけ、相手がそれに応答するような関係一般をさしているということです。

 また、バフチンは、対話的関係なくしては、ひとはあるがままの自分になることすらできないと述べています。対話では、人間は外部に自分自身をあきらかにするだけではなく、あるがままの自分にはじめてなれると述べています。

 「あるがままの自分になれる」というバフチンの考え方は、道徳科受業での「自己をみつめる」につながります。教材からのメッセージや友達の考え方に対して応答をするという過程のなかで、子供たちははじめて自分の考え方を自覚できるということです。


《引用参考文献》

桑野隆『生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(2021,岩波書店)

2022/08/12

共感とは、何か


 「〜の心情に共感させる」という文言が、道徳科の指導案でよく登場します。では、「共感」とは、どのような状態のことをいうのでしょうか。

 一般的な共感は、教材の人物の喜びや葛藤を自分のこととして感じることです。

 

 しかし、実際に他者の心情の全てを理解することは不可能です。それを、分かったつもりになって「あなたは〜と思っているはずだ」と決めつけてしまうと、「なぜ、〜と考えないのだ!あなたは、おかしい!」と、他者を批判する思考に陥ってしまいます。それでは、道徳科授業での対話が成立しなくなってしまいます。

 そこで、心理学での「共感」に着目してみます。心理学の分野では、決して相手のことを理解できないことを前提として、できる限り相手のことを理解しようとすることを「共感」と呼ぶようです。

 この「一般的な共感」と「心理学的な共感」、どちらも道徳科授業で身につけさせたい力になります。

2022/08/11

ねらいを考える


 道徳科授業のねらいは3文で成立します。①学習活動、②学習内容、③道徳性の3つが明確であるなら、一本の芯のある指導案をつくることができるでしょう。


《引用参考文献》

坂本哲彦『道徳授業のユニバーサルデザイン』(2014,東洋館出版社)

2022/08/10

道徳科授業の流れ


 従来の道徳の時間の授業は、中心発問でゴールにたどり着くイメージでした。今、求められている道徳科の授業は、中心発問が対話の始まりのイメージです。中心発問で学習内容を明確にし、問い返しや役割演技を通して新たな見方・考え方に気づかせることが大事になってきます。

2022/08/09

目の前の子供のことを知る


 道徳科授業は子供たち一人一人が自分を見つめる時間となります。教材の中の一つの事実について、それぞれが自らの過去の経験をもとに分析し、他者と対話をして、自らの未来(生き方)を考えます。

 一人一人が学びの主役であり、それぞれに課題が異なります。まず、その一人一人の課題を想像する必要が教師にはあります。「あの子だったら・・・」と、様々な発言や思考を想定するのです。それが、道徳科の授業づくりの第一歩です。 

2022/08/08

情報モラルと現代的な課題に関する指導


 学習指導要領(「第3章 特別の教科 道徳の「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」の2)によると、「身近な社会的課題を自分との関係において考え、それらの解決に寄与しようとする意欲や態度を育てるよう努めること」とあります。

 上記は、主として(1)情報モラルに関する指導、(2)現代的な課題の扱い、について書かれています。それらを道徳科授業で扱う際、どれか一つの内容項目だけで取り扱うことは困難です。複数の内容項目で一つの現代的な課題を扱うような、単元指導型の道徳活授業を設定したりする必要があります。

2022/08/06

4年生教材「あいさつ運動」


 4年生教材「あいさつ運動」(日本文教出版)、内容項目はB「礼儀」。高学年の学習内容は「時と場をわきまえて、礼儀正しく真心を持って接すること」になります。

 教材文を素直に読むと、「大きな声であいさつをすることが大切だ」「あいさつをしたら、みんなが笑顔になれる」という感想を抱きますが、それでは低学年の学習内容になってしまいます。

 そこで着目したいのは、この文章です。

僕たちは仲のよい友達には「やあ」と声をかけ合うぐらいで、ほとんどあいさつをしませんでした。

 おそらく、学級の子供たちも、このような実態の子が多いのではないでしょうか。教材によると、仲のよい友達と「やあ」と声をかけ合うのはあいさつにはならないようです。しかし、子供たちの中にはあいさつのつもりで友達に声をかけている子もいるはずです。

 そこで、「やあ」と声をかけ合うのはあいさつになるのかを尋ねてみます。そうすることで、子供たちの「あいさつ」に対する考え方を聞くことができます。そのうえで、「やあ」と「おはよう」のどちらが、真心のこもった礼儀になるかについて考えさせることで、あいさつには「心」と「形」が大事になるということに気づかせます。

2022/08/05

あなたにはどのように見えましたか


 道徳科授業の役割演技では、原則としては演技後にまず観客役の児童生徒に感想を求めます。その際の尋ね方のポイントとして、上越教育大学大学院の早川裕隆氏は以下のように尋ねることが大事だと述べています。

 何と言っていましたか

あなたはには、何て(言っているように)聞こえ

ましたか

 どんなこと(顔)をして

 いましたか

どんな気持ち(お顔)のように、あなたには見え

ましたか

 同じ演技を観ていても、観客役の児童生徒の「観え方」はそれぞれです。同じ言葉を聴いていても、その言葉のもつ意味の捉え方もそれぞれです。それらを引き出し、対話につなげる。それが役割演技では重要になるのです。

 なお、このように尋ねることを繰り返すことで、観客役を育てていくことにもつながります。観客役が育っている学級では、役割演技の効果がより高まることでしょう。

2022/08/04

4年生教材「心と心のあく手」と役割演技


 教材「心と心のあく手」での役割演技について考えます。役割演技をする場面は「ねらい」によって変わります。これはどの教材にも共通することです。

 

【ねらいの例①】

 例えば、ねらいを

ぼくが感じた心と心の握手の意味を考えることを通して、相手の状況や気持ちを理解したり想像したりしながら親切をすると、自分もより嬉しくなることに気づき、相手の状況に寄り添いながら親切にしようとする心情を育てる。

と設定します。上記のねらいにおける中心発問は、

ぼくが心の中で感じた『心と心の握手』とは、どんな握手なのでしょう。

になります。

 そのうえで役割演技の場面を考えると、中心人物であるぼくが「心と心の握手をした」と感じた場面になります。役割演技の声かけとしては、

ぼくの心の中の、ぼくとおばあちゃんを演じてみましょう。

となります。


【ねらいの例②】

 次に、ねらいを変えてみます。

数日後、おばあさんがこの前より足取りが重い様子で坂道を歩いているのを見たぼくの気持ちを考えることを通して、相手の状況や気持ちを理解したり想像したりしながら親切を行うと、自分もより嬉しくなることを理解し、相手の状況に寄り添いながら、親切な行為を行おうとする心情を育てる。

とします。この場合の中心発問は、

数日後、おばあさんが、この前よりも重い足取りで坂道を歩いているのを見たぼくは、どんなことを思ったでしょう。

となります。その際の役割演技は、

あなたが考えたぼくとおばあさんを演じてみましょう

になります。

 ねらいを明確に設定することで、自ずと中心発問や役割演技は決まるのです。


《参考》

2022年8月2日『第3回役割演技セミナー』上越教育大学大学院 早川裕隆氏講座