2022/01/30

ブランコ乗りとピエロ(1)


 小学校高学年の定番教材「ブランコ乗りとピエロ」。研究授業でもよく扱われる教材です。内容項目は「相互理解、寛容」です。

 さて、学習指導要領解説の指導の要点(P49)を読んでみると、以下のようなことが書かれています。

(以下、学習指導要領解説より一部抜粋)

『この段階においては、自分のものの見方や考え方についての認識が深まることから、相手とのものの見方、考え方との違いをそれまで以上に意識するようになる。また、この時期には、考えや意見の近い者同士が接近し、そうでない者を遠ざけようとする行動が見られることがある。そのような時期だからこそ、相手の意見を素直に聞き、なぜそのような考え方をするのか、相手の立場に立って考える態度を育てることが重要である。』

(以上)

 ここで注目してみたいのは、「そうでない者を遠ざけようとする行動がみられる」という記述です。このような行動は学級での子供たちの関係性にもよくみられることです。その行動がきっかけでトラブルが起こりやすいのも高学年児童の特徴ではないでしょうか。

 その視点でこの教材を読んだ時、教材前半のピエロの怒りは、気の合わないブランコ乗り(サム)を遠ざけたいというものではないかと考えるうことができます。他の団員は気が合う仲間であり、ブランコ乗り(サム)は気が合わないので、遠ざけることで自分の立場を守ろうとしているのです。

 そうであるなら、このピエロの行為(心情)の是非を問うてみると、自分ごととして考えることをねらう発問ができるのではないかと考えます。「考えの合わない人を遠ざけることをどう思うか」を学習内容にすることで、学びの焦点化を図るということです。この学習内容を通して児童自身の日頃の友人関係を振り返らせることができたら、この教材が子供たちにとって価値あるものとなるでしょう。

2022/01/27

自ら考えるための要件


 先述した「自ら考える」ということについての山田勉の論を紹介します。

(以下、著書『教える授業から育てる授業へ』より一部抜粋)

 自らがある状態に追い込まれたということは、それ以前の考えではその状態を脱出できないことを示している。そこで新しい考えを生み出してはその状態を切り抜けるのであるが、その新しい考えとそれ以前の考えとは、質的な違いが生じる。これを連続したものとみれば、前の考えのどこかを変えたり、新しい考えを付け加えたりしているのであって、いってみれば否定を媒介にした連続ということになる。連続していないとみる場合にも、前の考えでは通用しないことを自覚した新しい考えを生み出すのであるから、やはり一度は否定ということが行われているとみるべきであろう。

(中略)

そこで、わたしは、自ら考えるということは、結局、それまでの自分の考えを自覚し、新しい問題事態に対して考えを新しく立て直して解決に当たることであると考えたい。要するに、自覚的自己否定的思考の過程を進行することを、自ら考えることだとしたいのである。

(以上)

 この「自覚的自己否定的思考の過程」という論をもとに、山田氏は「自ら考える」ための要件を三つ述べています。

要件①自分で考えることの目的をもつこと

 目的がなければ、「自ら」ということはあり得ない。

要件②自分で考え方を見出していくこと

 問題解決の方法を他者から指示されるのでは自ら考えるとはいえない。その問題解決の方法を、過去の経験を生かしたり、新しい知識を獲得したり、資料を分析したりという、多様な操作を通して自分で見出していくことがどうしても必要である。

要件③自分で考えたことを評価し、さらに発展していくこと

 問題を解決していく考えは、次に新しい問題状況を生み出していかなければならない。その新しい状況に対応する形で、考えはさらに発展するのである。


《引用参考文献》

山田勉著『教える授業から育てる授業へ』(黎明書房,1987)

自ら考える


 「自分で考えてみよう」などの声かけを教師なら一度はしたことがあるでしょう。山田勉は、「自ら考える」ということについて以下のように述べています。

(以下、著書『教える授業から育てる授業へ』より抜粋)

考えるということは、何の条件もないところではなかなか成立しない。なんとなく、いろいろなことを走馬灯のように思い浮かべるときがある。まったく自由に、自分一人の世界に遊んでいる気ままな状態である。このような状態を、考えてるとは言わないであろう。むしろそれは思っているという言葉が使われることが多い。考えるということは、何らかの条件のなかで、考えざるを得ない状況に追い込まれて、その状況から脱出して、安定した状態を回復するために行われるのである。だから、一般的に、考えるとは問題解決のために、他の諸要素を伴って推理することと言われるのである。

(以上)

 山田氏の論を借りると、「自ら考える」とは「考えざるを得ない状況から脱出して安定した状態を回復する行為」だということになります。ここに主体的な学びにつながるヒントがありそうです。


《引用参考文献》

山田勉著『教える授業から育てる授業へ』(黎明書房,1987)

2022/01/26

償い


 1月22日(土)、道徳科の自主研修会「AtoZ道徳授業学習会」(主催:岐阜聖徳学園大学 山田貞二先生)が開催されました。この日のテーマは「音楽と道徳」。さだまさしの『償い』(教育出版)の教材分析及び模擬授業が実施されました。

 オンラインでの開催でしたが、チャット機能が活用され、全国の先生方の意見が次々に書き込まれていきました。以下は、チャットでの意見交流の一例です。


【ゆうちゃんの視点】

・ゆうちゃんはお金を送ることで、ここまで生きてこられたのかもしれない。

・ゆうちゃんの誠実な人柄に心打たれた。このような人にこそ幸せであってほしい。

・自己満足だとわかっていても送金を続けることを選ぶしかないゆうちゃんが哀しい。

・ゆるしてほしいとは思っていない。償いきれないと自分でもわかっているから。

・ゆうちゃんは許してほしいとは思っていないと思う。自分が生きていること自体が許せない。でも生きている。なんとか生きるためにお金を送っているのではないか。

・手紙をもらって泣いたのは、罪を許されたのではなく、自分という存在が生きていることを許されたと感じられたから。

【奥さんの視点】

・残された人が幸せになるにはどうしたらいいのか。

・奥さんが前を向いて歩もうと決意しなければ、ずっと引きずってしまって奥さん自身の人生がつぶれてしまう。ゆうちゃんからの仕送りを断つことで、新たに歩みを進めようとしたのではないか。

・被害者の奥さんは、7年間の間どんな思いで生きてきて、あの手紙をどんな気持ちで書いたのだろう。

・7年間の送金を見た時、自分の人生は幸せなのかな。許せないという思いにとらわれている人生ってどうなのかなと思ったから。

・心から許すことはできないが、前を向いて歩き出したい。7年間の葛藤をこえて。

・(自分なら手紙を書かない、許せないけれど)加害者の誠意は感じる。

【授業づくりの視点】

・「人間って哀しいね」とはどういうことだろう。

・過ちを犯した人間、犯された人間はよりよく生きることは許されないのだろうか。

・「生きていく喜びとは」とあるが、ゆうちゃんに喜びがあるのか。

・ゆうちゃんに生きる喜びを持たせるのはいいのか、悪いのか。それを考える。

・そもそも許すか許されないかという視点で子供達は考えるだろうか。 


 『償い』という教材(歌)について、本当に様々な視点・立場で意見交流がされました。このような素材研究での意見交流は校内の研修でも可能ではないかと思っています。研究授業の際、誰かが代表で指導案を作成し、その指導案についての検討をする場合が多いと思います。そうではなく、まずは素材研究をみんなで行うことが大切であるということを、この研究会は教えてくれているように思っています。ベテランの先生も若手の先生も同じ立場で意見を伝え合う。できる限り様々な視点での意見を出し合うことで、自然と学習のねらいや展開、発問が見えてくるものです

2022/01/25

問題意識


 児童生徒の「問題意識」について、山田勉は以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

先生たちの研究会に参加すると、「わたしのクラスの子どもは問題意識がなくて困ります。どうしたらよいのでしょうか。」と聞かれることが多い。問題意識があれば、授業も活発になるし、教師の指示をまたないでも、自ら考え学習する子どもになると考えるから、このような質問が多くなるのであろう。この判断は確かに正しい。しかし、問題意識をもって学習にあたるような子どもにするためには、特効薬的な方法があるわけではない。もしあるとすれば、わたしたちにその方法を尋ねる教師の考え方や態度を改めることが唯一の方法ではないかと思う。尋ねるとすれば、今、問題意識がないとぼやく子どもしかいないというべきであろう。彼らには問題意識がないわけではなく、題意識をもっても教師に認めてもらえなかったり、ひどいときには拒否されたりするので、むしろ、あえて問題意識のない状態を維持しようとしていると考えるべきである。だから、その気持ちを子どもに素直に述べてもらい、教えてもらうことこそ、問題意識をもつ子どもにする方法を発見する最善の道である。

(以上)

 山田勉氏は強烈なメッセージを私たちに送っています。このことは、授業の中での問題意識に対しても、生活の中での問題意識に対しても、どちらにも共通していることだと言えるでしょう。

 道徳科授業においても、子供たちは教材と出会うことで様々な感情をもちます。行為への違和感であったり、怒りであったりもします。その瞬間、子供たちは問題意識を確かにもっているのです。しかし、教師の口から発せられるのは「誰が出てきましたか?」など、人物や場面状況の確認です。また、その後の発問も教師から発せられます。子ども達のもつ問題意識を伝える場面がないまま授業が進んでいくのです。時に、教師の発問に対して適さない発言をすると、「今はそのことは尋ねていないよ」と、話を切られることもあります。そこに子供たちの問題意識を入れ込む余地はありません。

 「主体的な学び」を求めるには、子供たちの問題意識は必要です。そのために、私たちは子供たちの思いをもっと受け止める必要があるのではないでしょうか。問題意識をきちんと受け止めてもらえることで、子供たちは自己(学級)の課題をみつけられるようになるのです。


《引用参考文献》

山田勉著『教える授業から育てる授業へ』(黎明書房,1987)

2022/01/24

個別最適な道徳科授業


 昨日、オンラインで道徳科授業について話をする機会を頂きました。その際、「どのような道徳科授業を目指すのか」ということを冒頭に尋ねました。

 道徳科授業の目的は「道徳性を養う」ことになります。それは「自分(人間)の生き方についての考えを深める」ということと同意であると現状では認識をしています。なぜなら、生き方を考えるには、なりたい自分や目指したい社会をイメージすることや、それらを目指すための行動や考え方、判断基準を意識する必要があるからです。また、「自分の生き方を考える」には、自らの経験や考え方を否定するという過程を通る必要もあります

 道徳科授業のもつ可能性は限りなく広いものです。扱う内容項目によっても授業スタイルが異なって当然だと思っています。それでも、道徳科授業の学びの過程は、やはり「自分を考える」ことであり、目指すべきは「生き方の探求」になります。その手段として、価値理解や人間理解、他者理解を姿見として、自らをふり返るということが求められているのです。

 そうであれば、道徳科授業そのものが「個別最適な学び」になっているといえるのではないでしょうか。同じ教材で一斉学習を基本とする道徳科授業ではありますが、その本質は「個別最適」となっているのです。


2022/01/20

学ぶということ


 社会科教育の研究者である山田勉氏の著書『教える授業から育てる授業へ』から道徳科授業を考えます。

 近年、「深い学び」という言葉が広がっています。「何をもって『深い』といえるのか」という議論をよく見かけますが、「『学び』とは何か」という議論も当然必要でしょう。

 山田氏は、『学ぶ』の概念について以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

わたしは、学ぶということは、認識の自己否定だと考えている。知識でいえば、それまでもっている知識が、新しい知識を学ぶことによって否定されるということである。自己否定はもちろん自覚的過程でなければ成立するはずがない。したがって、教師が手とり足とりで、完全をよそおって知識を教えていても、それだけでは学ぶことにはならないのである。(以上)

 「学ぶ=認識の自己否定」という論について、これは先述している村上敏治氏の「確かな価値認識とは、さきの価値経験に対する自己評価である」という論と同意と認識できます。哲学的思考これは社会科のみならず、どの教科にも共通する概念であるといえるでしょう。

 道徳科授業においても、授業前(または導入時)の価値認識を、対話を通して自己否定・自己評価できるようにすることが重要なのです。


《引用参考文献》

山田勉著『教える授業から育てる授業へ』(黎明書房,1987)

2022/01/18

本音


 「子供たちが本音を言わない」という授業者の悩みを聞くことがあります。この場合の「子供の本音」とは、どのようなものを指しているのでしょうか。

 多くの場合、道徳科授業における「子供の本音」とは、「〜できない(していない)自分」についての発言を指しているのではないかと考えます。要するに、多くの授業者は「きれいごと」を求めていないのです。

 では、「きれいごと」は道徳科授業において不要なのでしょうか。このことについて、村上敏治氏は以下のように述べています。

(以下、著書から抜粋)

 児童生徒に本音をはかせるにはどうしたらよいかとか、なかなかほんねを言わないとかということが発問に関してよく言われる。道徳授業の特質からいってこれには大いに疑問がある。何よりも、児童生徒の本心が道徳性から見て悪に充ち満ちていて、ことばだけできれいなことをいう、児童生徒はことばでごまかしたり粉飾したりするものだという前提があるかぎり、真の道徳教育はあり得ない。かぎられた話し合いの範囲で、しんけんに応答していることばから本音を洞察してやることこそが教師の力量である。とくに中学生段階において、自己の私生活に関する問題について、一斉授業のかたちをとる道徳授業において、臆することなくしゃべる生徒があるとするならば、そういう傾向こそ、道徳性から見て問題がある。そしてよく考えて見れば、ほんねとたてまえを区別するのは、成人になってからである。ほんねとたてまえが異なるというのは、おとなとしての教師の先入観にすぎないのであって、とくに、小学校段階では、児童生徒がほんねとたてまえを区別して発言するなどということは、あり得ないと考える方が真実に近い。ほんねとたてまえのちがいについて、教師はあまりにも意識過剰である。ましてや、児童生徒の心の奥底に秘めた、道徳的欠点や弱点を言わせることが、ほんねを吐かせることだと考えているならば、道徳の授業は、検察的取り調べになり終わる

(以上)

 私たち教師は、子供たちの何を観ているのでしょうか。、「しんけんに応答していることばから本音を洞察してやること」が教師の役割であると村上氏は述べています。これは、精神医療におけるオープンダイアローグの視点から考えると、「暗黙の前提(ドミナント・ストーリー)」に気づかせることと同意であると考えます。対話を通して自身の道徳性に気づかせることになります。教師は目の前の子供に対して自らが無知な存在であると自覚し、その子供の意見を真剣に聞くことが求められているのでしょう。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

2022/01/13

道徳的価値の一般化


 村上敏治氏は道徳的価値の一般化が要求される由来をと以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

一定の資料は、すべて内容上、特殊な場面での特定の問題における、特定の考え方や生き方を具現したものである。それが特定の場面での特殊な生き方・考え方を示したものであるほど、資料または教材としての迫力に富むといってもよかろう。しかしそれだけに、単に資料内容を教えるだけでは、一定の主題を教えたことにならない。一定の資料によって得られた道徳的価値の学習経験を拡充したり延長したり、資料内容以外の素材をもってこれに加えたりして、主題の全面を蔽うくふうが要求される。資料内容を教えただけでは、いわゆる「資料どまり」になって主題の要求するものと完全に一致しないのは、やむを得ないことである。(中略)もともと一般化という概念は特殊なものを一般化するということであり、したがって一般化される対象は、まずもって、資料の示している問題場面の特殊性であると考えてよい。

(以上)

 私たちは「価値を一般化する」というような表現を使うことがあります。では、一般化するとはどういうことなのか。村上氏の論を借りるとすると、資料の示している問題場面の特殊性を一般化するということになります。これは、日常生活に当てはめて自分ごととして考えさせ、教材での学びを通して自己を見つめさせる(生き方を考えさせる)ということになるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

2022/01/12

確かな価値認識(2)


 村上氏は「単純な価値経験が、たしかな価値認識に到達する過程には、知的な思考による反省が加えられなければならない。一応はよい・正しいと思われたことが、かならずしもよくない、もっとよい・正しいことのあることを知って、さきの価値認識の評価が行なわれなければならない。さきの価値経験に対する自己評価である。」と述べています。

 では、価値に対する自己評価、すなわち反省的評価が可能になる条件はどのようなものなのでしょう。このことに関して、3つの条件を村上氏は挙げています。

【条件① 前後の価値経験の比較照合】

 生活は無限に連続していくものなので、断面において抽出された価値経験は、次の段階における価値経験との比較対象によって具体的に評価されるべきである。前後の価値経験の比較照合によって、「ほんとうによかった」「やはりよかった」とあらためて評価されたり判断が是正されたりすることもある。

【条件② 自己と他者の価値経験の比較照合】

 他人の価値経験についての見聞を通して、自己の限られた経験の範囲での価値判断の主観性・独善性を見つめることができる。一斉学習の形態をとる道徳時間の指導における価値経験についての話し合い活動は、それを可能にする最も有効な場である。

【条件③ 自己を鮮明に写し出す教材】

 道徳指導に活用される資料(教材)は、自己の生活経験からはただちには現れてこない価値的世界を提供する。それは他者によって実現された価値的世界ではあるが、それこそが自己を見つめるための鏡となる。自己反省・自己認識といっても、人間は自己の眼で直接に自己を見ることはできない。自己をぶつけてこだまとしての自己をよびもどす鏡が必要であり、それが道徳科授業における「教材」となる。単純で限られた価値経験のもっている抽象性や主観性は、教材が提供する価値的世界の具象性と構造性によって、自らにひきもどされ脈絡づけられて、ここで自己の価値経験の真価がためされることになる。これがもっとも具体的できびしい自己評価の機会となる。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

2022/01/11

確かな価値認識


 村上敏治氏の『道徳教育の構造』に、以下のような記述があります。

(以下、抜粋)

局限され抽象された場面での価値経験についても、一応は、よい・わるいの価値判断はなされる。そもそも判断は、文字の示す通り、わけることであり、わけられてこそわかるのである。しかし、それが局部的抽象的場面においてでなく、さまざまの具体的経験が加わって具体的場面におかれてみると、かならずしもわけれらない。すなわち、わけがわからなくなるのである。「ほんとうによいと思うか」と問いつめられると「わからない」ということになる。ここに全体的な価値認識を深め、たしかなものにしていくべき課題がある。単純な価値経験が、たしかな価値認識に到達する過程には、知的な思考による反省が加えられなければならない。一応はよい・正しいと思われたことが、かならずしもよくない、もっとよい・正しいことのあることを知って、さきの価値認識の評価が行なわれなければならない。さきの価値経験に対する自己評価である

(以上)

 「さきの価値経験に対する自己評価」という文言こそ、道徳科における授業展開を表現している言葉であると感じました。

 教材の中の道徳的課題に対して、授業者はその価値判断を問います。その課題は限られた場面状況での判断となりますが、一応のよい・わるいは判断できます。村上氏はこの場合の判断を『単純な価値経験』としています。もしここでの判断で授業を終えてしまっていると、おそらくは「いいことだけを発表する授業」となってしまうでしょう。

 教材の場面は局部的抽象的場面であるので、そこに具体を加える必要があり、そうすることで生まれる「わからない」が『たしかな価値認識』につながると村上氏は述べています。この場合の「具体」とは、「判断の未来を考えさせる」「自分ごととして考えさせる」「条件を加える」「自己の経験を想起させる」「他者や過去者と比較する」などの手立てが考えられます。そして、これらの手立てが「さきの価値経験に対する自己評価」となるのです。

 このように考えると、道徳科授業における「補助発問」とは、児童生徒が行った単純な価値経験を自己評価させるためのものだといえるのではないでしょうか。道徳科授業は思考の矢印を自分に向けさせることを大事にします。そのためには、補助発問を通して自己評価を促すという授業者の心構えが必要になるのでしょう。

 

《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)

2022/01/08

自分について考える


 道徳科の目標に「自己を見つめる」「自己(人間として)の生き方についての考えを深める」という文言があります。このことから、道徳科授業では自らの視点を自らに向けさせることが大事になります。

 しかし、「自分について考えなさい」といったところで、それは困難であることは明確です。このことについて、村上敏治は著書『道徳教育の構造』のなかで以下のように述べています。 

(以下、抜粋)

自分で自分を見つめる、自分について考えるといっても、何の媒介もなしにできることではない。人間の視線はもともと外交的のものであって、他人のことは眼についても、自分のことには気づかないし、自分のことをたなにあげて他人のことをあげつらうことになりがちである。直接に自己を見つめることはほとんど不可能である。他人の話を聞いたり、他人に注意されたり、他人の行為を見たりして、自分のことに気づいたり、われにかえったりする。外に向かう人間の視線を自らの内に向けるためには何らかの他者の媒介を必要とする

(以上)

 村上氏は、人間の視線を自らの内にむけさせるためには、何らかの他者の媒介が必要だとしています。この「他者の媒介」こそ、道徳科授業における「教材」であり、「道徳的諸価値の理解」であり、そして「他者(教師や級友)との対話」であるといえるのではないでしょうか。道徳科授業を構成する教材や活動、展開や学習活動は、その全てが児童生徒自身の自らの内に視線を向けさせるための手立てということができそうです。

 また、村上氏は「他者が正しく理解できてこそ自己を知ることができるのであり、自己を正しく知ることができるようになって、真に他者を正しく理解することができる」とも述べています。

 道徳科授業では「価値理解・人間理解・他者理解」の三つの理解が重要とされています。この三つの理解のうち、私は「他者理解」に少し違和感をもっていました。他者(この場合の他者とは、授業者や級友のことを指していると理解しています)を理解することが、道徳科授業においてどれぐらい重要なのかを曖昧に理解していました。しかし、他者を正しく理解することが自己を知ることにつながるという村上氏の論を知ることで、「なるほど!」と納得することができました。

 他者を理解するということについて、その理解のみを目的としてしまうのではなく、他者のことを正しく理解しようとする自己に目を向けさせる(自らの葛藤や道徳的経験を振り返らせる)。それが自己の正しい理解につながるのだと、このように納得しています。


《引用参考文献》

村上敏治著『道徳教育の構造』(明治図書,1973)