本音の発言を求める
道徳の授業で「子どもがきれいな発言しかしない」という悩みを抱いていませんか。本音で話し合ってほしいのに、いわゆる「正しい発言」のみで進んでいく授業。今回はそのような授業からの脱却について考えてみます。
前提として、なぜ教師は道徳科授業で「本音」を求めるのでしょうか。本音を求めるということは、道徳的な行動ができていない自分をさらけ出してほしいという教師の思いでしょうか。それとも、日々の生活で自分勝手な行動の多い子が、道徳の授業の中だけきれいな発言をすることに対する戸惑いでしょうか。
道徳の授業で「本音で語る」という意義を、「多角的な思考」という技能を身につけるという意味だと解釈してみましょう。ある道徳的事象に対して、「もし自分なら、きっとできないと思う。なぜなら、〜」、「どうすればできるのだろう」、「自分に足りないものはなんだろう」と考えたりすることは、自分ごととして考えていることになるからです。
ですから、「本音で語ってほしい」という願いは、道徳科がねらう「多面的・多角的に考えてほしい」という願いでもあるといえます。そして、そのことが議論の活性化を生み、道徳性を深めることにつながるのです。
さて、今回のテーマである「子どもがきれいな発言しかしない」ということの要因を三つの視点から考えてみます
(1)他の教科との関連
例えば、算数の授業を想像してください。教科書の説明と子どもの解き方が異なっていました。その際、どのように反応されていますか。もし、「ダメです!教科書通りの解き方をしてください」と言っているようであれば、要注意です。その学級の子ども達は、先生の前だけの姿を作り上げていくかもしれません。例えば、「その解き方の意味を教えてくれる?」「それのよさはあるかな?」と尋ねてあげることで、自分の考え方を先生はきちんと理解しようとしてくれるのだと子ども達は感じることができ、本音の発言を導く土壌が少しずつ耕されていきます。(そのうえで、学習内容の特質に合わせてどのような解き方をさせるかは、きちんと伝える必要があります)
(2)教室の安心感
本音の発言が出てきた時、それを他者が笑ったり冷やかしたりするような学級では、やはり発言を控えようとなってしまいます。どの集団でも同じですが、上質なコミュニケーションを生みだすために必要なことは、集団の居心地であり、他者への安心感です。
40人学級を想像した際、その40人はそれぞれに関わり合いがある学級になっていますか。1学期が終わりましたが、一度は全員が全員と話をできているでしょうか。常にひとりで行動している子。小集団に固まってしまっている子。他者をバカにすることで自分の立場を作ろうとしている子。そのような子はいませんか。日常の関わりの中でさみしさや不安を感じているのなら、道徳の授業の中で上質なコミュニケーションは生まれません。つながりを深めるアクティビティを取り入れるなどして、関係の改善に取り組みたいところです。
(3)教師の発問
これが最も大きな要因かもしれません、それは、教師が「きれいな発問」しかしていないということです。そうであれば、子供も「きれいな発言」しかしなくなるのは当然です。例えば、「この時、ぼく(中心人物)はどのようなことを思ったのでしょう」と発問しているだけでは、「素直に謝ろうと思った」などのような、いわゆるきれいな発言しか出てこないでしょう。もし、そのような発言だけを求めたいのなら、この発問でよいかもしれません。しかし、本音(多面的・多角的な発言)を導き出したいのなら、「でも、難しいよね?」「謝るのは、誰のため?」などの「深める発問(補助発問)」をすることで、子ども達は「そうか・・・。実際は難しいかもしれない」「実は自分のために謝ろうとしているのかな」というように、様々な見方で発言するようになります。その際、中心人物に自我関与することができていれば、中心人物の言葉に自分自身の本音を重ねることができるでしょう。
子ども達は、教師が「正しいことを言う」と認識しています。その教師という存在が、道徳的に正しいとされる心情や行動を否定する発問をすると、子ども達は思考をゆさぶられ、物事の本質を本音で考え始めます。これが、「きれいな発言だけの授業」からの脱却のポイントになります。
以上、3つの要因を考えてみました。まずは、始めやすいことからぜひチャレンジしてほしいと思います。
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