公園掃除から考える道徳科授業
今日は居住校区の公園掃除。朝から家族で出かけました。年配の方から小学生、幼児まで、ざっと見て50人以上が参加していました。一つの、決して大きくない公園掃除にこれだけの人が集まることに誇りを感じます。まさに、郷土(地域)を愛する心ですね。
さて、この清掃活動に注目してみます。道徳教育の観点からいくと道徳的行為(道徳的実践)に当たる活動になります。では、このような清掃活動に参加させることを、道徳教育は目指しているのでしょうか。
道徳教育の目的は「心を育てること」だとされています。いわゆる「道徳性」というものです。道徳性を育てた先には、きっとよりより行動が待っています。しかし、「行動」を強要することはあってはならず、行為(道徳的実践)を求めることは道徳教育ならびに道徳科の授業の目的とは大きく異なっていることをお伝えしておきます。
道徳授業で地域の清掃活動を扱う場合、このような展開が考えられます(中学年想定)。
(1)議論する課題を決める
「なぜ、休みの日に、仕事ではないのに多くの人が掃除をしているのだろう」
(草が伸びてる公園の写真や清掃中の写真があれば、視覚に訴えることができますね)
(2)浅い価値理解
「公園がきれいになると、心がすっきりする」「自分たちの地域を愛しているからかな」
(3)人間理解・他者理解
「一人では難しい。僕にはできないかもしれない」「誰かにお金を払ってやってもらったら?」
(4)深い価値理解(自己のふり返り)
「これから大切にしたいことはなんだろう」
このような流れで地域の人々の思いを考えたり、進んで活動に参加しようとする思いを高めたりできます。
さて、ある日の道徳授業で高学年の子どもがこのような発言をしました。
「僕は、川に落ちているゴミが気になって、一人で掃除をはじめました。何回か続けたけれど、道を歩いている人がじろじろと見てくるので、続けられませんでした。」
自らゴミ拾いを始めた心に、私は素直に「すごい!」と感じました。しかし、「周りの目」に耐えられず、続けられなかったという悔しさもありました。まさに、道徳的諸価値の自覚と、人間理解(自分の弱さ)を込めた発言でした。その日の授業では、この発言からみんなが自分ごととして考え始めました。
子ども達は、「地域のゴミがなくなれば心がすっきりする」ということを知っています。「進んで活動したい」という道徳性も持ち備えています。実は、教師が気づいていないだけかもしれません。または、教師を含む大人の言動が、その道徳性に蓋をしてしまっているのかもしれません。
そうであるならば、道徳科の授業が、その蓋を外すきっかけとなります。すでに進んで活動をしている子どもにとっては、その行動のよさを自覚するきっかけにもなります。自己の行動をふり返り、未来につなげることができるのです。
道徳授業について語り合う際、「当たり前のことを教えているので、子ども達が活発に話し合わない」という趣旨の発言がよく耳に届きます。決してそのようなことはないと、私は強く思っています。「当たり前」は、「思考停止」とも表現できないでしょうか。「当たり前」を疑い、その行動や決まりの奥にある「心」を見ようとする力を育てること、それが道徳科の授業のもつ大きな役割なのです。
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