学びの主体は子ども達
明治図書出版社から『道徳教育』という雑誌が発行されています。2021年8月号のテーマは「良い発問の条件〜悪い発問との比較で考える〜」です。
執筆者の先生方が、それぞれの視点で発問の在り方を述べていて、大変読み応えのある内容となっていました。また「発問研究」として後日紹介させてもらいます。
さて、この8月号の記事の中で、東京学芸大学 永田繁雄氏は、子どもが「学びの主体意識」をもつことを阻むものとして、以下のように述べています。
〜以下、抜粋〜
子どもにこのような意識をもちにくくすることはかんたんだ。(途中略)例えば、次のようにすることである。
◯学習テーマや課題を教師から提示する。
◯事前に用意したテーマカードを配る。
◯用意した発問カードを並べていく。
◯小さな問いを連続させていく。
◯発問や指示が配列されているワークシートを用いて書かせる。
〜以上〜
グサッと胸に刺さる記事です。まず、「学習テーマ」や「課題」を教師が提示をしてはいけないとあります(これは他教科の授業でも同様ですね)。
では、どのように課題を提示したらよいのでしょうか。教師が課題を提示しないのなら、誰が提示するのか。それは、授業の主体者である子ども達自身です。教材と出会うことで頭の中に「?」や「!」を生み、何を考え議論したいかを自分たちで決める。そうすることで、はじめて「学びの主体意識(必然性)」が生まれるのです。
もちろん、教材を読ませて「はい、どーぞ」というわけにはいきません。導入や発問を工夫することで学びを支えることが必要となります。大切なことは、子ども達を「よき学び手」として信頼することです。
また、用意した発問カードを並べていくこともよくない例として書かれています。いわゆる「短冊(発問を書いたもの)」と呼ばれるものだと思われます。研究授業の前に一生懸命に作成する、あれです。
教師が手間をかけて作る発問短冊ですが、子ども達にとっては意欲の高まりを阻害するものとなってしまうことがあります。なぜなら、どれだけ自分たちで話し合っても、次の発問が決まっているからです。「どうせ、先生の思った通りに進むだろう」と感じた子ども達は、きっと主体意識を失い、教師の求める発言をするだけになってしまうでしょう。
今回の記事を通して、授業者の心構えを問われているのではないでしょうか。全て準備をしておくほうが、安全で安心な授業ができるかもしれません。しかし、それは誰にとっての安全・安心なのでしょう。学びの主体である子ども達が望んでいるのは、授業という名の冒険であり、新しい大陸を発見するかのように、新しい学びを得たいと望んでいるのです。
子どもが輝く道徳授業。それは、教師の決めたレールの上だけを走るような、「いい発言」ばかりの授業ではないはずです。必然性を感じ、考えたいと願い、伝えたい気持ちが溢れ出す。学び手を信頼し。主体意識を持たせることを教師が意識している学級でのみ、そのような「子どもが輝く道徳授業」が生まれるでしょう。
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