2021/07/31

自分を物語る道徳授業(1)

『自分を物語る道徳授業』(1)


1 「聞いてほしい」が生まれる瞬間

 自然教室最終日、キャンプファイヤー。思い出を語りながら、こぼれる涙。何とも感動的な場面です。「感動」には、未来に目を向けさせるという思考転換の効果があるとされています。しかし、ここではこの光景を「感動」とは異なる視点で分析してみます。

 なぜ、本音で「語りたい」となるのでしょう。キャンプファイヤーの幻想的な雰囲気の効果もあるかもしれませんが、それだけではないはずです。

 この時の「自分を語る」という行為は、最終日までの「過去」の出来事を、「現在」の自分が抱いている希望や願いで紡ぎ直し、明日からの「未来」に役立つよう意味付けているのです。

 オーストリアの精神科医ヴィクトール・E・フランクルが「人間は意味を求める存在である」と述べていますが、キャンプファイヤーでの子ども達も、友だちと寝食を共にした日々の「意味」を求め、言語という手法を活用して価値を紡いでいるのかもしれません。

 

2 物語り(ナラティブ)と道徳授業

 自分の言葉で過去を語ること、これを「物語る」と呼びます。心理学では「ナラティブする」という行為になります。心理学者の森岡正芳氏が著書『ナラティブと心理療法」の中で、「人は自分で自分を作り直せる。それは、物語るという行為を通して叶えられる。」と述べているように、自分を物語ることで、過去と現在をつなぐことができるようになるのです。言い換えると、過去の「出来事」は変えられなくても、「出来事の意味」は変えられるということです。

 このことを道徳の授業での「ふり返る」という学習活動につなげて考えてみます。終末の活動でよく取り組まれる「ふり返る」という活動。他教科であれば、学習内容を整理することで新たな知識を得たり疑問を生んだりすることにつなげます。しかし、道徳の授業ではどうでしょうか。「ふり返る」という活動が形骸化し表面上の言葉のやり取りに終始していないでしょうか。

 森岡正芳氏は著書の中で、「大切なことは出来事の内容そのものに焦点を当てるのではなく、語りを通じて今ここで立ち現れてくる意味に焦点を当てることである。語り手がその言葉を通じてどのような意味を伝えようとしているのか。どのような世界を形成しようとしているのか。そこに集中する。」とも述べています。道徳の授業においても、子ども達が本音で語る姿から教師がその語りの「意味」を見出し、新たな未来につなげさせようとすることが大切だといえます。


3 物語り(ナラティブ)が生む教育的効果

 どのような出来事も、未来に生じる出来事との関係において意味が変わります。過去を他者に語る過程で出来事の「意味」を見つけ、過去の感情を塗り変える。それゆえ、「物語る」という行為そのものが治療的であるといえるでしょう。

 例えば、「感動・畏敬の念」や「よりよく生きる喜び」などの情的な内容項目を扱う授業では、この「物語る」という活動を通して自分の過去の出来事の意味を見つけさせることを大切にしてはどうでしょうか。語れなかった(語りたかった)物語を教材を通して表出させ、その物語に意味を持たせることで新たな自分を見つけさせる。このことが心理学での「治療」にもあたります。

 道徳の授業でも、時に涙が流れる場面があります。教師はその出来事だけに目を向けるのではなく、その出来事に込められた「意味」を理解しようとすること、そして、子どもの未来の変容に気づいてあげようとすることを大切にしていきたいですね。


〈参考〉『ナラティブと心理療法』森岡正芳 2008 金剛出版


2021/07/29

書籍から考える(1)

書籍から考える(1)有田和正氏


 道徳科授業に関する書籍を紹介していこうと思います。第1回目となる今回は、有田和正氏の書籍『「追求の鬼」を育てるシリーズ2 有田学級の「道徳」の授業』(明治図書 1993)です。私が持っている有田氏の著書の中で、道徳授業について著したものはこの一冊だけです。それゆえ、大変心に残っている一冊となっています。

 さて、この本を手に持ち、ページを一枚めくるだけで、有田氏の授業観に引き込まれます。心ゆさぶられる前書きから始まるのです。前書きで、有田氏は道徳授業に対しての『?』を述べています。

(以下、抜粋)

どんな道徳授業がよいのか。どういうことをするのが「道徳」の授業なのか。面白い「道徳」授業というのは、どういうもので、本当に価値があるのか

(以上)

まさに、「特別の教科 道徳」になった現在でも課題となっている「道徳科授業の必要性」について、問題提起をしています。

 そのうえで、有田氏は「道徳とは、事実を検討することなのだ」ということの気づきから、「事実」=「現実的な課題や身近な問題」として授業実践を重ねていきます。

 これは、教材を通して考える「特別の教科 道徳」として考えると、教材に込められた道徳的課題(道徳的価値の理解)についての善悪を検討することを通して、よりよく生きるための道徳性を育むというねらいに合致したものであると考えられます。そうであれば、教材(道徳的課題)と子ども達との出会いをどのように演出するのか、そもそも、その教材にどのような魅力があるのか、もっと考えていくべきなのだと思います。


 また、有田氏は書籍の中でこのようにも述べています

(以下、抜粋)

「道徳」に限らず、どの教科でも、子どもの発言の自由が保証されていなければ、授業は失敗する。教師が、子どもの発言の自由を保障し、ふだんから何でもいえる雰囲気を作っているならば、子どもの発言はおもしろいものになってくる。教師の都合の悪い結論だって平気で出す。この時、子どもたちが生き生きしていることはいうまでもない。教師の顔色など気にしていない。本当の自分たちの考えを出しているのである。(中略)本当に解放され、真理の探究に燃えているクラスであれば、教師の考えを参考にしながら考えるけれども、それになびいたりしない。教師に都合の悪い結論を出すようになったとき、

 A 何とできの悪い子どもたちか。

 B うん、子どもが育ってきたな。

のどちらかを思うかで、教師の価値が決まってくる。同時に、道徳授業の質も決まってくる。Bの方を思う幅の広い教師になりたいし、こうならない限り「道徳」の授業は成功しない。

(以上)

 まさに、道徳の授業そのもの、いえ、現在の授業づくりの課題を突きつけられたように感じます。いかがでしょう。「教師に都合の悪い結論を出すようになった」という状況の時、教師は「よしよし、楽しくなってきたぞ」と考えられるでしょうか。教師の導きたい発言を求めて授業づくりに取り組んでいないでしょうか。

 もちろん、「都合の悪い結論」のみをゴールにするわけではありません。議論の着火点とするのです。子ども達の発言を予想して、それに対する問い返しを用意しておきます。そうすることで視点を広げさせ、学びを深めていくのです。しかし、教師の想定を超える発言を子ども達は出してくることがあります。そこに、教師と子ども達の本当の対話が生まれるのです。

 道徳は明確な答えがないので、子ども達と対話をするとしたら教師には相当の準備が必要となります。それゆえ、有田氏の教えは、その時間と覚悟を教師に求めているのだと思っています。


2021/07/27

多面的・多角的って、なに?

多面的・多角的って、なに?

 

 今日、「道徳教育と特別の教科 道徳」についてお話する機会を頂戴しました。「道徳科授業の魅力を感じてほしい」という課題を自分で設定し、精一杯お伝えしてきました。結果・・・、「伝える」ということはやはり難しいものです。いつも感じることですが、まだまだ自分の言葉には力がないと反省させられるばかりです。

 さて、休憩の際に「多面的・多角的」という言葉について質問を受けました。社会科の「多面的・多角的」という概念と道徳科の「多面的・多角的」の概念が一致しないので困惑しているということでした。質問を受けると、受けた側にとって大きな学びが生まれます。自分の頭の中の曖昧な部分を明確にさせようと、「点」である知識を「線」や「面」としてつなげられるよう必死で考える機会になるからです。


 ここで、「多面的・多角的」という概念について書かれたものを紹介します。

 まず、帝京大学大学院教授の赤堀博行氏は、著書『特別の教科 道徳」で大切なこと』(東洋館出版 2017)の中で、「多面的・多角的」をこのように述べています。

【多面的】

 例えば、ある植物を正面から見たときには、緑がきれいとしか見えませんでしたが、違った側面から見たら、蕾が付いていることに気づいた。また、違った側面からみたら蝶が止まっていたなど、様々な見え方をするといったことです。例えば親切に関わる行為についてでは、親切を様々な面から考察し、親切についての理解を深められるような多面的に考えることが大切なのです。

【多角的】

 一定の道徳的価値について考えていく中で、異なる道徳的価値との関わりに気づくことも少なくありません。中心となる道徳的価値から周囲を考察するといろいろな物が見えてくる。つまり、一定の道徳的価値から関連する他の道徳的価値に広がりを持たせて考えるようにする多角的な理解も必要なのです。

 

 また、立命館大学教授の荒木寿友氏も、『ゼロから学べる道徳科授業づくり』(明治図書 2017)の中で多面的・多角的に述べています。

【多面的】

 一つの側面ではなく様々な側面から事象を捉えてみるということです。上からみたら円形だけど、側面から見たら長方形で、斜め側面から見たら円柱、そういったものの見方が多面的な見方です。道徳的価値に当てはめれば、平和という価値について日本人が考える平和もあれば、中東の人が捉える平和もあり、難民の方にとっての平和もあります。平和を様々な側面から捉えること、これが多面的に価値を考えるという意味です。

【多角的】

 一つの点から多方向に線が出ているような状態です。一つの企業がさまざまな分野の仕事を経営していくことを多角経営っていいますよね。つまり、ある事象について自分自身の見方を多様にしていくことを意味します。


 表現方法は異なりますが、両氏の説明に共通することは、多面的は内側(行動の背景や立場の違い等)に視点を向けるということであり、多角的は外側(他の道徳的価値とのつながり)に視点を向けていることかもしれません。


 また、武庫川大学教授の押谷由夫氏も、『道徳教育』明治図書(2020年5月号)の中で多面的・多角的な考えを引き出す授業というテーマでこのように述べています。

(以下、一部抜粋)

 中心場面において、どのように「多面的・多角的な考え」を引き出すか。ここが、道徳の授業の大きなポイントです。(中略)ここで提案したいのが、思考軸の視点移動です。大きくは、対称軸、時間軸、条件軸、本質軸の四つです。

(以上)


 押谷氏は、「多面的・多角的」という概念を、特別の教科 道徳の中では一つのものとして捉えているように感じられます。学習指導要領の改定の際、「多面的・多角的」という用語について盛んに議論がされました。「小学校で可能なのか」「社会科と用語の使われ方が異なっている」などの意見がよく聞こえてきました。

 現状、押谷氏の「思考軸の視点移動」に代表されるような、「様々な視点や立場、内容項目を考慮して思考すること」という認識に収まっているように感じています。中心発問や補助発問を考える際にも、この「多面的・多角的」という概念を大切にしていきたいものです。

2021/07/26

対話の第一段階

「対話」の第一段階


 道徳科授業での深い学びを成立させるためのキーワードの一つは「対話の成立」です。これは、型の決められた話し合いではなく、「伝えたい!」「聞かせてほしい!」という気持ちの溢れ出る対話を想像してください。

 本来、子どもは自分の気持ちを聞いてほしい、存在を認めてほしいという願望を持っています。「成長する存在」として当たり前の願望です。しかし、いざ授業になると、なかなか発言できない子がいます。教室がシーンとなる場面もあります。その要因として、「発言することに意欲を感じていない」または「発言することに抵抗がある」ということが考えられます。

 今回は、対話に必要な要素を、「環境」「経験」という2つの視点から考えてみます。

 まず、環境です。これは、いわゆる人的環境です。学級を「学び合う集団」と見た時、教師は個別の児童生徒の困り感に対しては様々な支援を考えます。しかし、集団全体の困り感に対しての支援はいかがでしょうか。

 今回のテーマでの困り感は、「つながる力の弱さ」です。インクルーシブ教育の観点から考えても、個と個のつながる力を身につけさせることが大切だとされています。これは、一人でいることの是非を問うているわけではありません。必要な時に、必要な人と関わることのできる力のことです。対話をする場面において、その瞬間に相手と関わる(つながる)ことが求めらるからです。そして、それには、信頼感や安心感が必要となるでしょう。

 さて、信頼感や安心感を感じさせることが先か、対話が成立することが先か。これは、たまごが先か、ニワトリが先かという議論とも似ていますが、どちらも並行してできていくものであると考えられます。多田孝志氏は、著書「授業で育てる対話力」(教育出版)の中で、対話の機能の一つとして、​​話し合うことにより相互理解や相互親和を深める「人と人との関わりづくり」があると述べています。このように、対話をすることでつながりが生まれ、つながりがあるから安心感が生まれる。そして、さらに活発な対話につながっていくのです。

 

 さて、信頼感や安心感という土台に、「経験」という視点を乗せていきます。これは、「習うより慣れろ」で考えてみます。日々の学校生活の中で、ペアで伝え合う機会をたくさん作ってはどうでしょうか。朝の会で「1分対話」を取り入れることも有効です。テーマは些細なことで大丈夫です。

「ラーメンとうどん、どちらが好き?」 

「一番好きな鬼ごっこは?その理由は?」

「無人島に一つ持っていく。何がいい?」

「今、一番行きたい旅行先は?」

「自分が知っている、最も画数の多い漢字は?」

 どうでしょう。本当に些細な質問です。1分対話を始めた頃は単語を伝え合うことで終わってしまうペアも多いのですが、それを続けることで相手に質問をしたり話を膨らませたりすることができていきます。みんなが考えやすいということを大切にするとともに、この活動を通して話し方や聞き方を教えて身につけさせていくのです。

 よく聴いている生徒がいたら、その視線や姿勢、うなずき方、表情、素敵な点をすかさず褒めます。学年に応じて、全員の前で褒められるのが恥ずかしいようであれば、全体では「すごく聴き方の上手な子がいたよ。〜がとてもよかった。その子のペアの子は、きっと話しやすかっただろうね」と伝えるにとどめ、本人には連絡帳などでさりげなく伝えてもいいでしょう。

 褒める点はいくつもあります。ジェスチャー、身の乗り出し方、体の向き、うなずき、視線、表情、声の大きさ。それらを「型」として提示しても、意識するのはごく一部の生徒だけです。そこで、活動を通して「伝え合うことに慣れさせる」とともに、「褒める(認める)」ことで話し方・聞き方を学級全体に広げていくのです。さらに、子ども達の些細な対話を教師も笑顔で聞き、おもしろさを共有することも大切になります。


 もちろん、算数・数学や理科など、他の教科学習の中での対話や教え合いも大切です。キーワードを考えるなら、「いつでも、どこでも、何度でも」を意識して取り組ませるということです(もちろん、学級の実態に応じた方法や段階、タイミングをきちんと考える必要はあります)。

 

 最後に、前述した多田氏は、「知的爆発」が起こる「深い対話」を希求し、展開していくことが、子ども達に対話型授業の醍醐味を感得させることにつながると述べています。今回紹介したことは、授業づくりというより学級づくりの視点であり、「浅い対話」の段階(もう一つ前の準備段階)となります。浅い対話からスタートさせ、やはり「深い対話」につなげさせたい。そのためには、発問や展開の工夫が必須です。そちらについても改めて考えたいと思います。

2021/07/23

発問は鬼ごっこ?

発問は鬼ごっこ?


 前日に続き、道徳授業での子どもの発言について考えていきます。

 突然ですが、「走り方」の練習をする場面を想像してください。「たくさん走らせる」という熱血な練習方法では、「走る」=「苦しくていやなこと」という意識を育ててしまう恐れがあります。では、どのような練習計画を立てましょうか。正しいフォームを、基礎からコツコツと教えますか。

 もちろん、コツコツと地道な努力を重ねさせることは大切です。しかし、低学年の児童を想定した場合、または、発言することにすでに拒否感を抱いている場合、その指導方法では逆効果になるかもしれません。大切なことは、「楽しそう!」というイメージを持たせることです。「がんばって走りましょう」というより、「みんなで鬼ごっこしよう」と伝える方が、きっと子ども達は「やったー!」となるでしょう。鬼ごっこを通して、楽しく「走る」という活動に取り組むことができます。そうして、自然と走り方を身につけたいという意欲も高めていきます。

 この「走る」という場面を、道徳の授業に置き換えてみます。「速く走る」というねらいが、「よりよい道徳性を身につける」というねらいとなります。子どもの意欲を高めるための活動が「鬼ごっこ」なのに対して、道徳の授業では「発問」を通して子どもの思考意欲を高めることになります。発問を工夫することで、「考えたい」「伝えたい」を生むのです。

 さて、「発問」を工夫する際に大切にしたいキーワードは、「思考のずれ」です。

例えば、以下のようなずれを起こすと、子ども達の「考えたい」という意欲が生まれます。

(1)導入とのずれ

(2)経験とのずれ

(3)他者(友達)の発言とのずれ

(4)既習の道徳的価値の理解とのずれ

(5)複数の道徳的価値の対立によるずれ

(6)理想とする行動と自分の弱さとのずれ

 このような「思考のずれ」を生む発問を、「広げる発問」と呼ぶことができます。発問を通して議論の視点を広げるのです。従来の道徳授業では、一つの発問に対して答えが一つになるような場合が多かったように思います。よく言えば、分かりやすい。悪く言えば、教師のレールに乗った授業です。レールから外れた意見は「よくない意見」と捉えられることが多く、そのような発言を出さないための発問研究もされていたように思います。

 しかし、大切にしたいことは、子ども達の「考えたい」「伝えたい」を生むことです。その場合、上記の「広げる発問」を教師が発することが効果的です。

本音の発言を求める

本音の発言を求める


 道徳の授業で「子どもがきれいな発言しかしない」という悩みを抱いていませんか。本音で話し合ってほしいのに、いわゆる「正しい発言」のみで進んでいく授業。今回はそのような授業からの脱却について考えてみます。

 前提として、なぜ教師は道徳科授業で「本音」を求めるのでしょうか。本音を求めるということは、道徳的な行動ができていない自分をさらけ出してほしいという教師の思いでしょうか。それとも、日々の生活で自分勝手な行動の多い子が、道徳の授業の中だけきれいな発言をすることに対する戸惑いでしょうか。

 道徳の授業で「本音で語る」という意義を、「多角的な思考」という技能を身につけるという意味だと解釈してみましょう。ある道徳的事象に対して、「もし自分なら、きっとできないと思う。なぜなら、〜」、「どうすればできるのだろう」、「自分に足りないものはなんだろう」と考えたりすることは、自分ごととして考えていることになるからです。

 ですから、「本音で語ってほしい」という願いは、道徳科がねらう「多面的・多角的に考えてほしい」という願いでもあるといえます。そして、そのことが議論の活性化を生み、道徳性を深めることにつながるのです。

 さて、今回のテーマである「子どもがきれいな発言しかしない」ということの要因を三つの視点から考えてみます


(1)他の教科との関連

 例えば、算数の授業を想像してください。教科書の説明と子どもの解き方が異なっていました。その際、どのように反応されていますか。もし、「ダメです!教科書通りの解き方をしてください」と言っているようであれば、要注意です。その学級の子ども達は、先生の前だけの姿を作り上げていくかもしれません。例えば、「その解き方の意味を教えてくれる?」「それのよさはあるかな?」と尋ねてあげることで、自分の考え方を先生はきちんと理解しようとしてくれるのだと子ども達は感じることができ、本音の発言を導く土壌が少しずつ耕されていきます。(そのうえで、学習内容の特質に合わせてどのような解き方をさせるかは、きちんと伝える必要があります)


(2)教室の安心感

 本音の発言が出てきた時、それを他者が笑ったり冷やかしたりするような学級では、やはり発言を控えようとなってしまいます。どの集団でも同じですが、上質なコミュニケーションを生みだすために必要なことは、集団の居心地であり、他者への安心感です。

 40人学級を想像した際、その40人はそれぞれに関わり合いがある学級になっていますか。1学期が終わりましたが、一度は全員が全員と話をできているでしょうか。常にひとりで行動している子。小集団に固まってしまっている子。他者をバカにすることで自分の立場を作ろうとしている子。そのような子はいませんか。日常の関わりの中でさみしさや不安を感じているのなら、道徳の授業の中で上質なコミュニケーションは生まれません。つながりを深めるアクティビティを取り入れるなどして、関係の改善に取り組みたいところです。


(3)教師の発問

 これが最も大きな要因かもしれません、それは、教師が「きれいな発問」しかしていないということです。そうであれば、子供も「きれいな発言」しかしなくなるのは当然です。例えば、「この時、ぼく(中心人物)はどのようなことを思ったのでしょう」と発問しているだけでは、「素直に謝ろうと思った」などのような、いわゆるきれいな発言しか出てこないでしょう。もし、そのような発言だけを求めたいのなら、この発問でよいかもしれません。しかし、本音(多面的・多角的な発言)を導き出したいのなら、「でも、難しいよね?」「謝るのは、誰のため?」などの「深める発問(補助発問)」をすることで、子ども達は「そうか・・・。実際は難しいかもしれない」「実は自分のために謝ろうとしているのかな」というように、様々な見方で発言するようになります。その際、中心人物に自我関与することができていれば、中心人物の言葉に自分自身の本音を重ねることができるでしょう。

 子ども達は、教師が「正しいことを言う」と認識しています。その教師という存在が、道徳的に正しいとされる心情や行動を否定する発問をすると、子ども達は思考をゆさぶられ、物事の本質を本音で考え始めます。これが、「きれいな発言だけの授業」からの脱却のポイントになります。


 以上、3つの要因を考えてみました。まずは、始めやすいことからぜひチャレンジしてほしいと思います。


2021/07/21

ワクワクする道徳授業

ワクワクする道徳授業


 夏休みに入りました。学校の先生にとって、ホッと一息つくことのできる日々です。

 さて、道徳授業について諸々と考えていると、ふと頭によぎることがあります。それは、「おもしろい道徳授業って、どんな授業だろう」ということです。

 あえて「おもしろい授業」という表現を使わせてもらいます。なぜなら、私自身が考える理想の授業イメージが、「おもしろい」という表現になるからです。もう少し言うと、学校の教育活動全体がおもしろくあってほしいと願っていますし、そのおもしろさを、子ども自身が感じとる力をつけてほしいと思っています。

 話を道徳授業に戻します。では、どのような道徳授業を、子ども達はおもしろいと感じるのでしょうか。

 一つ目のキーワードとして、「ワクワクする」ということが考えられます。この「ワクワク」という言葉を、別の言い方で表すと、学びの「主体性」や「必然性」という言葉になるでしょう。また、活発な話し合いができることや、新しい知識(見方・考え方)を学べる実感があることも、ワクワクにつながるかもしれません。

 「やったー!次は道徳だ」という声が聞こえてきたことがあります。給食当番の準備をしながら、授業の話し合いを続けている姿もありました。次の日に、感想を数ページにわたって書き綴った子もいました。全てに共通していることは、「もっと学び続けたい」という気持ちが心の中にあふれていたことです。まさに、日々の道徳授業にワクワクしていた状態だったのです。

 このワクワクを生み出すものの一つが、『発問』です。分類すると様々な呼び名がありますが、いわゆる『中心発問』や『補助発問(深める発問)』を想像してください。この発問を工夫することで、子ども達の心に「ワクワク」が生まれるのです。

 ここで考えてみてください。自分が授業を受ける立場とした時、どのような質問をされるとワクワクしますか。知識として知っていることを尋ねられたら、最初は答えられることに喜びを感じるかもしれませんが、いつも同じようなことを聞かれると、きっと「またこの質問か」と、飽きを感じてしまいます。これは、大人も子どもも同じです。

 私がワクワクする質問は、知識や経験として知っているけれど、自分が考えたことのない視点で問われることです。「えっ!?」「だって・・・」という戸惑いの後に、自分の頭の中がグルグルと回り始めます。必死で言葉を探し、文をつなぎます。その瞬間は苦しいのですが、しばらくすると頭の中がすっきりとしている状態となります。この状態が、「おもしろい」のです。水に潜り、パッと息を吸った状態に似ているかもしれません。

 もちろん、威圧的な態度で問われることは拒絶します。答えることに恐れを感じてしまいます。考えるという行為自体を放棄してしまいます。また、教師が答えを知っているという前提だと、「早く答えを教えてよ」という、解を与えてくれることを待つだけになってしまいます。発問者も、子ども達と同じ目線に立ち、共に考える立場になることが重要なのです。

 なお、「えっ!?」「だって・・・」という戸惑いを引き出すには、思考のずれを引き起こすことが有効です、例えば、「導入とのずれ」「経験とのずれ」「他者とのずれ」「複数の価値とのずれ」などです(「ずれ」については、また後日お伝えします)。

 発問について考えていくと、その先には子ども達の「ワクワク」が待っています。子ども達がワクワクする授業は、きっと教師にとってもおもしろい授業になると思います。ぜひ、夏休みに「発問」を考えてみてください。

2021/07/19

黄金比3:7

黄金比3:7


 『学びを結果に変えるアウトプット大全』(サンクチュアリ出版)の中で、著者である精神科医の樺沢紫苑氏は、「​​​​​​インプットとアウトプットの黄金比は3:7である」と述べています。何かを学ぼうとするとき、この黄金比を意識できたら、きっと力を大きく伸ばせるでしょうね。

 さて、道徳の授業において、教材を読んだり話を聞いたりしてばかりの授業では子ども達の学びが深まらない理由が、ここにあります(きっと、道徳だけではなく他の教科授業も同じだと考えられます)。

 日々の道徳授業において、このアウトプットの時間、いわゆる考え議論する時間がどれだけ確保されているでしょうか。なお、この場合、教師の発問による一問一答での発言はアウトプットに入れることはできないと、私は判断します。なぜなら、それは発言を許された児童のみのアウトプットであり、他の児童は聞いているだけになりがちだからです。

 例えば、「◯◯さんが、〜と発言したけど、みんなはこの意見に賛成かな?」というように、一人の発言を学級全体に広げます。それをきっかけに多様な思考を促し、意見を対比したり納得できる解を見つけたりできるように、授業者は授業をデザインします。一人の子の発言がみんなの発言となり、学級全体で思考することができたら、それはアウトプットになります。

 さらに、樺沢氏は『アウトプットをすると、必ず疑問が生じる。その「なぜ」を放置せず、「なぜ」を突き詰めるとその先に「気づき」が見えてくる。』とも述べています。上で述べましたが、一人の子の発言により、自分と他者の意見との違いに気づいたり、日常生活の経験とのズレが生じたりします。その違いやズレが、まさに考え議論するポイントになるのです。なんだか、この書籍が道徳科授業について書かれたものに感じてきましたね。

 道徳科の授業において、対話する時間をぜひ確保してください。対話の種類や方法は後日述べますが、子ども達の対話(アウトプット)が、道徳科授業における主体意識を養うためには必須です。黄金比3:7を意識し、2学期の授業を考えてみてくださいね。