2022/11/23

令和の道徳科授業(3)〜個別最適な学びと協働的な学び〜

 奈須正裕は、「個別最適な学び」の実現において、教師による「情報の開示」が必須だと述べています。

(以下、著書より一部抜粋)

 子どもたちが「マイプラン学習」を自力でどんどん学び進められるのは、学習のてびきやガイダンスプリントなどにより、単元の学びを自分らしく計画し実施するのに必要な文脈情報が、わかりやすく的確に提供されているからです。

 子どもたちが自分に最適な、また創意工夫に富んだ学習計画を立案するには、十分な情報開示が不可欠になってきます。何がどのように求められるのか、どんな選択肢があるのかがはっきりと示されるからこそ「だったら、私としてはこうしたい」「そういうことなら、今回はここにこだわってみよう」といった、その子ならではの発想が豊かにわいてくるのです。(中略)

 よく「授業の主役は子どもだ」と言われますが、単元全体の構成はもとより、何時間で学ぶのかといったことさえ、従来の学校は十分に子どもに伝えてきませんでした。主役であるはずの子どもたちが、いわばシナリオである指導案を受け取っていないというのは、考えてみれば随分とおかしなことではないでしょうか。学習のてびきの発想が斬新に見えてしまうこれまでの状況にこそ、問題の深刻さはあります。

(以上)

 いかがでしょうか。従来の道徳科授業において、子供たちに渡す情報は「教科書(教材)」だけでした。「学習の手引き」などを作成して渡すことはほぼありません。確かに、これでは子供たちは何を学ぶのか、どのように学ぶのかを考えることはなく、教師の発問に対して、「おそらくこれが正解だろう」という答えを考えるだけでした。ここに、道徳科授業の「(子供たちにとっての)つまらなさ」の原因があったのかもしれません。

 奈須氏は、著書の中で「必要に応じて指導案や学習指導要領解説も渡すべきだ」と訴えています。そこまでの徹底した情報の開示をすることで、子供たちが自ら学ぶ力を養うことができるということです。

 「指導案を渡すと、子供たちに答えがわかってしまう」という声が聞こえてくるかもしれません。果たして、そこに書かれていることが、道徳科授業における「答え」なのでしょうか。もしそのように考えてしまうなら、道徳科の本質を誤解しています。自己を見つめ、自分(人間)としての生き方を考えることが道徳科の目的であり、そこに均一な答えはないはずだからです。

 私は「指導案を渡す」という考え方に大変関心を抱きました。しかし、従来の教師視点の指導案を渡しても、それをもとに子供たちが学び方を身に着けることは難しいのではないかと感じます。そこで、令和時代に求められる指導案の書き方を模索する必要があるのではないかと考えます。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

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