奈須氏は、「協働的な学び」について、著書の中で以下のように述べています。
(以下、著書より抜粋)
その際、教師はいわゆる「41人目の追求者」として、子どもたちとともにどこまでも学びを深めていこうとする存在であることが肝要です。たとえ小学校低学年の学習内容であっても、考え深めるほどにわからなくなっていくことは、よくあることでしょう。そして、それでいいのです。なぜなら、学ぶとは本来、わかっていると思い込んでいたことが、一段深い水準においてわからなくなることだからです。わからなくなることは、学びにいてよい兆候であり、それを回避することは学びを遠ざけることでしかありません。すると、事例のように、このような学び本来のあり方を教師が身をもって教室で体現することこそが、子どもたちをよい学び手へと育て上げていく上で最善の教材ということになります。
(以上)
道徳科の授業でも、「わからない」を自覚させることが大事になります。教師の「わからない」を直接子どもたちにぶつけてもよいのではないでしょうか。教師が「わかっている」前提で授業をするから、子どもたちが本気になれないのではないかと、私は思っています。子どもを見くびることなく、「教える」ではなく「ともに考える」という道徳科授業はいかがでしょうか。
《引用参考文献》
奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)
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