2022/11/29

令和の道徳科授業(8)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「個別最適な学びと協働的な学びの往還を原理とした授業づくり」について以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 実は、奈良女附小のように、特に学習法とか独自学習といったことを明確に打ち出してはいない学校でも、協働的な学びに先立ち、一人ひとりが個別的な学びを存分に深められるような機会を保障している学校や教師は少なくありません。

 それどころか、かつての社会科では、授業と授業の間に、子どもたちが自主的に家庭で考えをまとめてきたり、地域の人から聞き取り調査をしたりすることを暗黙の前提として授業を構想・実施していましたし、子どもたちもそのように学んでいました。

 個別最適な学びと協働的な学びの往還を原理とした授業づくりは、けっして新しいものでも珍しいものでもありません。もちろん、大正期にそのことを看破していた木下や奈良女附小はさすがだと思いますが、私たちが感心し是非ともやってみたいと願うような授業は、必ずと言っていいほど個別最適な学びをその構成要素として含み込んでいたのです。

(以上)

 令和の時代に求められている「個別最適な学び」は、決して新しく何かを始めるのではないという著者のメッセージを受け取ることができます。

 さて、道徳科授業は「45分(50分)で完結させるもの」という考え方が当たり前にあるように感じています。しかし、道徳教育は学校生活の全ての場面で行うべきものだという前提から考えると、かつての社会科と同じように、授業と授業の間に自主的に考えたり調べたりすることを子供たちに意識づけすることも大事になるのではないでしょうか。道徳科授業においても、「個別最適な学び」と「協働的な学び」を往還させるということです。そうすることで、より広く、より深く考え議論する道徳科授業が生まれるのではないかと、私は思っています。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/27

令和の道徳科授業(7)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「独自学習と相互学習の往還」について以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 深く真剣な独自学習により、自分としては一定の結論を得て、もうこれ以上は考えられないという地点にまでたどり着いた時、子どもは同じく懸命に独自学習に取り組んでいる他者の考えを聞きたくなります。この段階で相互学習を設定すれば、仲間の考えに真剣に耳を傾け、自身の学びとのすり合わせの中で生じた感想や疑問を率直に語り合う、すぐれて互恵性の高い学びが生じるでしょう。それゆえ、同校では相互学習による授業を、通常の「話し合い」でなかく「聞き合い」の授業と呼び習わしてきました。

 仲間の考えを聞き、自分の考えも聞いてもらい、また、それらについてのお尋ねや応答、そこで見えてきた問いを巡っての議論なども活発になされる中で、もちろん、子どもたち全員が納得し、決着のつく事柄も数多くあるでしょう。しかし、むしろ大切なのは、先の独自学習では気付けていなかった点、あらためて調べたり考え直したりすべき事柄が明らかになってくることです。

 さらに興味深いのは、残された課題や追加で検討すべき事項には、全員に共通するものも一定程度ありますが、多くは一人ひとりに固有なものであったり、少なくとも重みや焦点が微妙に違ったりしていることでしょう。一般的な授業の終盤で見られるような「今日の授業でこのことがわかりました」といった平板で画一的なまとめで一件落着になるような他人ごとの浅い学びとは正反対の位置に、奈良の学習法は碇をおろしているのです。

 だからこそ、相互学習が一段落すると、子どもたちは再度の独自学習へと向かっていきます。仲間との「聞き合い」でわかったこと、考えたこと、疑問に思ったこと、課題として残ったことなどを各自で整理し、もう一度「孤独の味」の世界に没入して、何より自分に対し誠実に、さらなる学びを深めていくのです。

(以上)

 前日の記事で「複数時間扱いの内容項目の一時間を「独自学習」として取り組んでみてはどうか」ということを提案しましたが、現在の道徳科授業は圧倒的に「独りで考える」という時間が足りていないということに改めて感じさせられる記述です。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/26

令和の道徳科授業(6)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「個別最適な学びと協働的な学びの関係(独自学習と相互学習の往還)」について、奈良女子大学附属小学校の例をもとに以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 木下竹次と奈良女附属小は、自分たちの取組を「学習法」という言葉で説明してきました。それは、どうやって子どもに教えるかという教授法ではなく、子どもたちはどのように学び育つか、また、学校や教師はそれをどのように支えるかを柱にして、日々の教育実践や教育研究を推進していこうとの立場を象徴しています。

 そんな同校では、「特設学習時間」を典型とした個々人による自立的な学習を「独自学習」と呼ぶのですが、同時に集団で協働的に学び合う「相互学習」も大切にしていて、学習過程としては、独自学習→相互学習→独自学習という流れを理想としていました。これが、奈良の学習法の基本原理の一つということになります

 この原理は今日でもなお大切にされていて、同校では普通の教科学習でも、まずは独自学習によって一人ひとりがしっかりと学び深めます。しかも、算数科の授業などでよくやられる「自立解決七分間」といったちゃちなものではなく、丸一時間、場合によっては数時間をかけて一人でじっくりと課題や教材と向き合い、納得がいくまで考え抜いたり調べたりする学習になることが多いです。

 戦後、文部省で小学校社会科の創設に関わり、後に同校の主事を務めた重松鷹泰は「孤独の味」という言葉で独自学習の意義というか、その独特なたたずまいを表現しています。一人静かに沈思黙考して課題と正対し対話すること、また、その過程において必然的に生じるであろう自己との正対や対話は、その子の学び、そして成長にとって、きわめて貴重にして決定的に重要な経験となるに違いありません。

(以上)

 道徳科授業で、上記の「独自学習」がどれぐらい確保されているかを想像してみると、ほぼ確保できていないという現実があります。ワークシートに考えを書く時間はあるかもしれませんが、子供たちの「書きたい」という気持ちから生まれた時間ではなく、教師の指示によって生まれる時間なので、奈良女子大学附属小の「独自学習」とは異なるものといえるでしょう。

 道徳科では一つの内容項目について年間で複数時間扱います。例えば、そのうちの一時間を「独自学習」として取り組んでみてはどうでしょうか。新聞記事や補助資料等を使い、自分たちで道徳的諸価値について考える時間を十分に確保する。事前に教材を読ませておいて、自らの考えをしっかりともたせておく。そのうえで、授業時間を「相互学習」の時間として扱う

 従来の道徳科授業は45分(50分)を一つの括りとして考えていました。令和の道徳科授業を考える際、その授業観を今一度見直してみてはいかがでしょうか


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/25

令和の道徳科授業(5)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「協働的な学び」について、著書の中で以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 その際、教師はいわゆる「41人目の追求者」として、子どもたちとともにどこまでも学びを深めていこうとする存在であることが肝要です。たとえ小学校低学年の学習内容であっても、考え深めるほどにわからなくなっていくことは、よくあることでしょう。そして、それでいいのです。なぜなら、学ぶとは本来、わかっていると思い込んでいたことが、一段深い水準においてわからなくなることだからです。わからなくなることは、学びにいてよい兆候であり、それを回避することは学びを遠ざけることでしかありません。すると、事例のように、このような学び本来のあり方を教師が身をもって教室で体現することこそが、子どもたちをよい学び手へと育て上げていく上で最善の教材ということになります。

(以上)

 道徳科の授業でも、「わからない」を自覚させることが大事になります。教師の「わからない」を直接子どもたちにぶつけてもよいのではないでしょうか。教師が「わかっている」前提で授業をするから、子どもたちが本気になれないのではないかと、私は思っています。子どもを見くびることなく、「教える」ではなく「ともに考える」という道徳科授業はいかがでしょうか。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/24

令和の道徳科授業(4)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、著書の中で「必要に応じて指導案や学習指導要領解説も渡すべきだ」と述べています。徹底した情報の開示をすることが、子供たちの「自ら学ぶ力」を養うことにつながるからです。

 このことに関して、著書の中で以下のように述べています。

(以下、抜粋)

 「そんなものまで渡すのか」と驚かれると思いますが、大切なのは、子どもを見くびらないこと、子ども扱いしないことです。子どもが要求するならば、どんな情報だって提供すればよいのです。あるいは「こんなものもあるけど、使ってみる?」と、こちらから尋ねてもいいでしょう。

 教師の側にそのつもりがなくても、子どもから見て、教師が大切な何かを後ろ手に隠しているような授業では、子どもは決して本気にはなりません。これもまた、子どもを信用しているか、期待しているかという根本的なことと関わってきます。

(以上)

 私たち教師は「子どもをみくびっている」と反省させられる記述です。「何もわかっていない」という前提で子供たちと関わり、日々の授業を考えている。これは、精神医療における「オープン・ダイアローグ」で重視されている「無知の姿勢」から眺めても、決してよいことではないと思われます。教師こそ、子供たちのことを「何も知らない」という姿勢で関わるべきなのです。子供たちのもつ力を信じるべきなのです。

 ここで一つ、気になることがあります。「学習指導要領解説」を子供たちに渡すということについて、そのことの賛否は別として、実際のところ解説に書かれている本質を読み取ることは教師である私たちでも苦心するところです。小学生の子供たちの多くも、やはり難しいのではないでしょうか。

 必要に応じて渡す必要があるというのなら、私たちが子供たちにも理解しやすいように「学習指導要領解説の解説」を作ってはいかがでしょうか。道徳科であれば、内容項目・発達段階ごとに分かれているので、そのような「解説の解説」という補助資料も可能ではないかと考えます。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/23

令和の道徳科授業(3)〜個別最適な学びと協働的な学び〜

 奈須正裕は、「個別最適な学び」の実現において、教師による「情報の開示」が必須だと述べています。

(以下、著書より一部抜粋)

 子どもたちが「マイプラン学習」を自力でどんどん学び進められるのは、学習のてびきやガイダンスプリントなどにより、単元の学びを自分らしく計画し実施するのに必要な文脈情報が、わかりやすく的確に提供されているからです。

 子どもたちが自分に最適な、また創意工夫に富んだ学習計画を立案するには、十分な情報開示が不可欠になってきます。何がどのように求められるのか、どんな選択肢があるのかがはっきりと示されるからこそ「だったら、私としてはこうしたい」「そういうことなら、今回はここにこだわってみよう」といった、その子ならではの発想が豊かにわいてくるのです。(中略)

 よく「授業の主役は子どもだ」と言われますが、単元全体の構成はもとより、何時間で学ぶのかといったことさえ、従来の学校は十分に子どもに伝えてきませんでした。主役であるはずの子どもたちが、いわばシナリオである指導案を受け取っていないというのは、考えてみれば随分とおかしなことではないでしょうか。学習のてびきの発想が斬新に見えてしまうこれまでの状況にこそ、問題の深刻さはあります。

(以上)

 いかがでしょうか。従来の道徳科授業において、子供たちに渡す情報は「教科書(教材)」だけでした。「学習の手引き」などを作成して渡すことはほぼありません。確かに、これでは子供たちは何を学ぶのか、どのように学ぶのかを考えることはなく、教師の発問に対して、「おそらくこれが正解だろう」という答えを考えるだけでした。ここに、道徳科授業の「(子供たちにとっての)つまらなさ」の原因があったのかもしれません。

 奈須氏は、著書の中で「必要に応じて指導案や学習指導要領解説も渡すべきだ」と訴えています。そこまでの徹底した情報の開示をすることで、子供たちが自ら学ぶ力を養うことができるということです。

 「指導案を渡すと、子供たちに答えがわかってしまう」という声が聞こえてくるかもしれません。果たして、そこに書かれていることが、道徳科授業における「答え」なのでしょうか。もしそのように考えてしまうなら、道徳科の本質を誤解しています。自己を見つめ、自分(人間)としての生き方を考えることが道徳科の目的であり、そこに均一な答えはないはずだからです。

 私は「指導案を渡す」という考え方に大変関心を抱きました。しかし、従来の教師視点の指導案を渡しても、それをもとに子供たちが学び方を身に着けることは難しいのではないかと感じます。そこで、令和時代に求められる指導案の書き方を模索する必要があるのではないかと考えます。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/16

令和の道徳科授業(2)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 中央審議会が2021年1月26日に公表した答申の中で、個別最適な学びと協働的な学びの実現の必要性について述べられています。昨日の記事では、「個に応じた指導(学習者視点では「個別最適な学び」)」の重要な要素である「指導の個別化」を紹介しました。本日は、「学習の個性化」について紹介します。

(以下、答申より抜粋)

(前記事の続き)基礎的・基本的な知識・技能や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探求において課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

 以上の「指導の個別化」と「学習の個性化」を教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」であり、この「個に応じた指導」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」である。

 道徳科において、「一人一人に応じた学習活動」や「一人一人に応じた学習課題」の提供は、どのようにすれば可能となるのでしょうか。これからしっかりと考えていきたいと思っています。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/15

令和の道徳科授業(1)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 中央審議会が2021年1月26日に公表した「『令和の日本型教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜(答申)」の中で、個に応じた指導について以下のように述べています。

(以下、答申より抜粋)

新型コロナウイルス感染症の拡大による臨時休校の長期化により、多様な子供一人一人が自立した学習者として学び続けていけるようになっているか、という点が改めて焦点化されたところであり、これからの学校教育においては、子供がICTも活用しながら自ら学習を調整しながら学んでいくことができるよう、「個に応じた指導」を充実することが必要である。この「個に応じた指導」の在り方を、より具体的に示すと以下の通りである。

 全ての子供に基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、思考力・判断力・表現力や、自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度等を育成するためには、教師が支援の必要な子供により重点的な指導を行うことなどで効果的な指導を実現することや、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどの「指導の個別化」が必要である。

(以上)

 「指導の個別化」に関する記載になります。この答申を道徳科の眼鏡で読もうとすると、複数の疑問が頭に思い浮かんできます。

(1)道徳科における「自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度」とは?

(2)道徳科における「教師の支援の必要な子供」とは?

(3)道徳科における「学習進度、学習到達度」とは?

(4)道徳科における「指導方法の柔軟な提供・設定」とは?

(5)道徳科における「教材の柔軟な提供・設定」とは?補助教材を複数用意して、選択できる環境を整えるのか。


 道徳科は「特別の教科」です。しかし、「特別」だからといって上記のような疑問を意識しなければ、道徳科は子供たちにとって魅力のない教科となってしまう恐れがあります。また、これらの疑問を考えることこそ、道徳科の授業改善につながるものだと考えます。

 

《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/14

たからさがし(3)


 道徳科の授業づくりの際、私は一枚の白紙に思いついたことを書き込んでいきます。小学校3年生の教材「たからさがし」の授業イメージはこのようになりました。

2022/11/13

たからさがし(2)


 小学校3年生の教材「たからさがし」の具体的な手立てについて考えます。

 本教材では、「やっぱりやめよう」と勇気をもって非道徳的な行動を止めることのできた喜びや充実感を実感させることが大事になります。そのための手立てとして、役割演技が考えられます。

2022/11/12

たからさがし

 小学校3年生の教材「たからさがし」について考えます。内容項目はA「善悪の判断、自律、自由と責任」です。

 係活動の「たからさがしゲーム」で、友達の筆箱を砂場に埋めてドッキリをしようという計画を立てた3人(まこと、りくお、かずき)に対して、ぼくが「やっぱり、やめよう」と言うお話です。

 砂場に筆箱を隠すという行為、考えただけで許すことはできません。このお話を読んだ子の中には、「もし自分が隠されたら・・・」と感じたり、過去に嫌がらせを受けた経験を思い出したりする子もいると想像できます。その子たちへの配慮は必要になるでしょう。いじめ予防につながる教材でもあると言えます。

 さて、学習指導要領解説を読むと、以下の2点の通り考えることができそうです。


2022/11/09

ブランコ乗りとピエロ(ホット・シーティング)


 教材「ブランコ乗りとピエロ」の授業を「ホット・シーティング」の技法を使って取り組んでみました(模擬授業)。「ホット・シーティング」とは、「テキストの内容やある場面の登場人物の心情などをより深く理解するために、教師や学習者が登場人物となって、質問したり答えたりする技法」のことになります。

 「ホット・シーティング」は、誰かが質問を受ける「ホット・シート」に座った時点で活動が始まります。シートに座った子が教材の人物になりきって、フロアからの質問に答えます。重要になるのは「即興性」であり、いわゆる「役割演技」と共通するところがあります。

 さて、実際の模擬授業でのやり取りを紹介します。

教 師『サムのことを完全に許したのですか』

ピエロ「どこかに裏切られた気持ちがあります」

教 師『じゃあ、がまんしたということですね』

ピエロ「がまんではないけど・・・。でも、いいサーカスにしたいから、自分の目立ちたいという気持ちが邪魔になった気がします。それに、(教材の)最後の方に怒りが消えてしまったと書かれています。

教 師『では、あなた(ピエロ)の「裏切られた」という気持ちを消したものは、何でしょうか』

ピエロ「サーカスを成功させたいという気持ちです。自分にないものを相手がもっていることに気づきました」

教 師『なぜ、それを見つけることができたのだろうね』

 本来なら観客役の子供たちに質問をさせるのですが、今回は教師が質問をする形を取りました。教師とピエロ役の児童との対話を「観る」ことで、観客役の児童の思考を深めることをねらっています。

 このようなインタビュー形式の活動も、道徳科授業では効果的ではないかと思っています。


《引用参考文献》

渡部淳、獲得型教育研究会編『学びを変えるドラマの手法』(2010,旬報社)

2022/11/08

ブランコ乗りとピエロ


 教材「ブランコ乗りとピエロ」の学習活動案の一例を考えます。この教材を初めて読んだ子供たちは、どのような感想を抱くでしょうか。予想できる感想として、「なぜ、(サムは謝っていないのに)ピエロは許すことができたのかが分からない」「僕なら許せないと思う」というものが考えられます。この「予想される初発の感想」をそのまま発問として使うことができそうです。

 さて、授業前半では、ピエロのこみ上げる怒りについて考えさせます。サムの演技で観客は楽しみ、大歓声が聞こえています。それにも関わらずピエロが怒っている理由をまずは理解させます。「規則が大事」「自分も目立ちたかった」などの意見が出てくることが予想されますが、そこで「二人の考え方は似ているか。違っているか。」を問うてはどうでしょうか。

 二人の考え方には似ているところ(自分が目立ちたい)も似ていないところ(決まりを大事にしているか)もありますが、実のところ二人の関係は「気が合わない関係」といえそうです。そこで、初発の感想を生かして「ピエロが許せたことについてどう思うか」を考えさせます。子供たちからは「許すことに納得できない」という意見も出てくるでしょう。

 そのうえで、子供たちに考えさせてみたいこと(補助発問)は「考え方が違う人を遠ざけて過ごすことは、楽しいか」です。いわゆる「一般化」の発問であり、教材から離れて子供たち自身の生活を想起させることで、よりよい生き方を考える発問になります。

 最後、ピエロがサムを許した行為について考えさせます。子供の中には「気が合わない人と過ごすことに反対だ」「許したことは納得できない」と考えている子もいます。だからこそ、ピエロの言動について考えることが大事になるはずです。 

 上記は学習活動案の一つですが、目の前の子供たちの実態に合わせて、授業の展開も柔軟に考えていきたいものです。

【学習活動案】

(1)発問「ピエロはなぜ怒っているのか」

(2)発問「二人の考え方は、よく似ているか」

(3)発問「そんなにすぐに許せるのか」(初発の感想を活用)

(4)発問「考え方が違う人を遠ざけて過ごすことは、楽しいか」(一般化)

(5)発問「サムの姿を見てピエロが気づいたことは何か」(価値理解)