2022/06/11

子どもの意見を聞くということ

「えっ!求めている発言と全く違う・・・。どうしよう」という経験はないでしょうか。ねらいと異なる発言が子供たちから出てきた時、どのように応対すればよいのでしょうか。

 まず大事にしたいことは、その意見はその子自身の実体験をもとに語られている場合が多いという認識をもつことです。物語の出来事を自分ごととして捉え、過去をふり返りながら語っているということです。そうであれば、その「ねらいと異なる意見」を大事にするということは、その子の過去の経験を教師が受容し、「あなたは大事な存在だよ」と認めることになると私は考えています。そして、そのような意見にこそ「学びを深める見方・考え方」が含まれていることも、経験上感じています(単純に聞き間違えなどの場合もありますので、そこは教師の見取りが求められます)。 

 園田(2021)も、以下のように述べています。

(以下、著書より一部抜粋)

 『はしの上のおおかみ』と言う定番の読み物がある。教師はオオカミが変容した理由を子ども達に問うた。クマに親切にしてもらったから、と言う意見が続く。そのときA子が「ウサギさん、かわいそう」と一言。教師は、「質問をよく聞いてね」と返した。以前は、「こら、こら」とにらみつけ、怒鳴ってきたオオカミだ。突然抱っこされるなんて、ウサギは恐怖心が募るばかり。A子の気持ちが痛いほど想像できる。「A子さんは、そのことがずっと気になっていたんだ。みんなは、どう?」こう返せば、様々な意見が出たことだろう。核心に迫る授業はそこから始まるのではないかと思う。「これまでのこと、ごめんね」その一言もなく、オオカミはウサギを抱き上げた。クマに親切にしてもらったからといって、急に同じ行為を受け継ぐなんて、こんなオオカミを信用できない。そのような感性を持つ子どもはA子だけではないはず。

ところが、先生は「質問をよく聴いてね」。つまり、「これからはボール球を投げないでね」と言うわけだ。A子からすれば、「先生。私の意見をよく聞いてね」と言いたいところだろう。授業者が特定のストライクゾーンを決め込み、そこから外れる意見はすべてボール球。これでは意欲を喪失する子どもも出てくるのではないか。

しかし、そのような分かり切ったことがなぜできないのだろうか。一つは、時間に追われている中で、どの意見も受け入れていると「授業がまとまらなくなる」という恐れだ。それがストライクゾーンを狭め、結果的に意見の排除、思考の均一化をもたらしてしまうのだろう。

(以上)

 園田のいう「ボール球」の発言を取り上げると、授業の流れが不確実になるおそれがあることは事実です。授業に混沌が生まれ、子供たちも「えっ!どう考えたらいいのだろう」と驚きや不安を感じるかもしれません。しかし、その混沌の中でこそ、「本気で考えたい」「自分の考えを分かってほしい」という思いが生まれてくるのではないでしょうか。主体的・対話的に学びには、まさに「ボール球」の意見を教師が大事にする態度が必要になるのです。


《引用参考文献》園田雅治『「つながり」を育み授業を愉しむ』(2021,解放者出版)

2022/06/09

注意すべき発問


 元教科調査官の瀬戸(1986)は、道徳科授業における「注意すべき発問」の一つを以下のように説明しています。

(以下、著書より抜粋)

導入から終末まで、計画的に発問はなされるが、どの段階であっても、精選して、質の高いものでなければならない。次のような発問は、ぜひ気をつけたいものである。

①読解力に影響される発問

「なぜA君は、優しくしたのでしょう」というような発問を投げかけたとき、その答えは文中にあるというようなことである。つまり、読解で答えられるのであり、読解力のある子どもが活躍する授業になってしまう。このような発問では、自分をふり返ったり、自分のことを語ったりすることはできない。文中にあることばではなく、行間を読み取らせるような発問こそ大切である。

(以上)

 教材を読めば書いているようなこと、すぐに分かってしまうようなことを問うことは、道徳科授業ではあまり意味のない発問であるということです。


《参考引用文献》

瀬戸真『新道徳教育実践講座1 自己をみつめる 道徳の時間における価値の主体的自覚』(1986,教育開発研究所)

2022/06/08

結果と動機

 道徳科授業では、行動の「結果」ではなく、その動機(思い)に着目させることが重視されます。

(以下、抜粋)

一般に、行為という現象を見て、それが良い悪いと考えがちである。しかし、よく考えてみると、それは、ほとんどの場合、一連の行為の結果であることが多い。結果に対しては当然、動機がある。行為がいかに良さそうに見えても、そのときの動機が悪ければ、その一連の行為は道徳的であるとはいえない。また、いかに動機が良くても結果が悪ければ、その一連の行為は道徳的には必ずしも歓迎されないことが多い。ただし、道徳の視点から一連の行為を見るときには、結果よりも動機を重視しようとするのは当然のことである。

(以上)

 しかし、例えば小学校低学年では行為の動機に着目させることは難しいものです。そのようなときは、上記とは別に「結果に着目」させることで、その結果を生み出した動機(思い)のよさを理解させることが大事になります。低学年のポイントは「結果に着目」なのです。


《参考引用文献》

瀬戸真『新道徳教育実践講座1 自己をみつめる 道徳の時間における価値の主体的自覚』(1986,教育開発研究所)

2022/06/07

劇化から役割演技へ


 早川(2020)によると、「役割演技」は1958(昭和33)年の学習指導要領で既に登場しているということです。当時は、道徳の時間の指導方法の一つとして、「劇化」という呼称で登場しています。

 当時の「小学校・中学校『道徳』実施要綱」では、劇化として3種類の形が示されています。「役割演技」はそのうちの一つとして、「心理劇・社会劇の形で即興的に演技するもの(役割演技)」と示されています。ほかの2つは「脚本に従って演技するもの」「名作を生徒が脚色し、演技するもの」とあるので、即興的に演技する「役割演技」とは形式が異なるものであるとわかります。

 なお、この後の学習指導要領の改定以降、劇化は「役割演技」と表記される一方、それまで劇化の形式の一つとして示されていた脚本に従って演技するものは「動作化」と表現されるようになりました。

 このように、「役割演技」と「動作化」は、「演じる」という点については同じように捉えられてしまうことがありますが、その目的や方法は異なるものであることを理解しておく必要があるといえます。


《参考引用文献》

上地完治編著『アクティベート教育学⑨道徳教育の理論と実践』(2020,ミネルヴァ書房)

2022/06/06

価値の一般化と終末の活動

 「価値の一般化」には、その前段階として「特定化」があるということを昨日述べました。

 日々の授業では終末の活動として「ふり返り」を書くことが多いと思います。授業者によっては、そのふり返りを紹介することもあるでしょう。そのふり返りの紹介こそ、実は価値の特定化から一般化へとつなげるものではないかと考えました。

 ふり返りを紹介する時、時間の都合上数名のふり返りを紹介することになります。その際、何を基準に先生方は選びますか。その基準の一つとして、子供それぞれの特定の事例が書かれているふり返りを選んでみてはどうでしょうか。それぞれの特定をいくつか紹介することで、「ああ、そうあ、そんなところにも生かすことができるんだなぁ」という一般化を生むということです。

2022/06/05

価値の一般化


 道徳授業においての「価値の一般化」は、元文科省視学官の青木孝頼が提唱したものです。青木は、価値の一般化を「ねらいとする一定の価値の本質を子どもたちに把握させ、体得させること」としています。しかし、青木は道徳授業の欠点として「教材が常に特殊な内容の一事例である」ことを危惧しています。価値の本質を、子どもたちが「特定場面における価値」として把握してしまうおそれがあるということです。

 そのうえで、元文科省教科調査官の瀬戸は、「一般化という学習過程には、段階として『特定化』とも言える作用があり、その過程を経て一般化されるものともいえる」と述べています。。

 つまり、「困っている人がいたら親切にしてあげたい」という気持ちが、「うちのおばあちゃんのふとんをかけてあげよう」という特定となって思考される。このような特定な事例がいくつか発表されることによって、「ああ、そうあ、そんなところにも生かすことができるんだなぁ」という一般化を生むことになるとしています。

 こうした一連の学習過程を「一般化」と呼んでおり、児童は「今まで、あるいは、今、自分はどうか」という反省から、「これからはこうしたい」という方向を求めていくことになる」ということになります。

2022/06/04

三びきは友だち(7)


 2年生教材「三匹はともだち」の中心発問は、教科書(日文)では「ぴょんたは、長い間下をむいて、何を考えていたのかな」とあります。本日は、この「中心発問」の分析に取り組みます。

 本教材で最も考えさせたいことは、「人によって違う態度をとることについて」です。

 子供たちに直接「人によって違う態度をとることについて話し合いましょう」といって対話が成立する学級ならよいのですが、もちろん小学校低学年にそのようなことは困難です。そのため、授業では「発問」という形で子供たちの対話を導くことになります。

 下図は、本教材の中心発問に係る要素をまとめたものです。中心発問の目的は「人によって違う態度をとることについて考えること」です。そのためには、自分の好き嫌いにとらわれると仲間外れや一人ぼっちが生まれることを理解したり、それでも好きな子を優先してしまうかもしれない人間の弱さに共感させたりする必要があります。それらを基本発問として、または中心発問に関連させて補助発問として考えさせるのです。

 このように、道徳科授業における「中心発問」は単独で成り立つものではなく、学習内容を明確にしたうえで基本発問や補助発問と密接につながるものであるという認識が必要になるでしょう。

                                    (筆者作成)



2022/06/02

二通の手紙


 ある研修で「二通の手紙」の教材分析が話題になりました。「二通の手紙で一番引っかかる文章はどこか」という質問から始まり、本教材で大事にしたいことについて講師の先生がこのように説明くださいました。

 「この教材は母の手紙のインパクトが強すぎる。まるで子どもをだまし討ちしているように感じないだろうか。本教材で大事なのは、「子供たちに何事もなくてよかった」というところである。多くの授業は「この年になってはじめて考えさせられることばかりです」という文章だけを切り取っている。しかし、その前の文章と合わせて考えさせることが大事である。そうすることで、生徒に中心人物の情の浅はかさに気づかせたい。「俺(元さん)の思いやりは大したものではなかった」という中心人物の気づきに気づかせ、そのことについて考えさせるのである。本教材を「温かい思いやりと冷たいルール(規則)」という対立にしてはいけない。本来、ルール(規則)は人を守るためにあるのだから」

 中心発問を考える際、確かに「この年になってはじめて知ることばかり」という部分だけを問うてしまいがちです(教科書の中心発問もそのようになっています)。しかし、大事なのは「子供たちに何事もなかったこと」であり、元さんの無責任な判断で事故につながる可能性があったということをしっかりと理解させる必要があるのだと納得しました。