2022/05/09

水平方向のダイアローグと垂直方向のダイアローグ


 ヤーコ・セイックラ(2008)は以下のように述べています。

(以下、引用参考文献から抜粋)

『オープンダイアローグにおける対話には、すべての参加者のあいだで行われる「水平のダイアローグ」と、それによって触発された個人の内部での「垂直のダイアローグ」の2つがあり、この2つの対話の協同こそが重要なのである(Seikkula 2008)。』

(以上)

 先日紹介した事例をもとにすると、ある児童が地域清掃についての経験を話題にしました。それを聴いている他の児童の心の内部にも地域清掃に関する連想が生じます。そのような連想が「水平方向のダイアローグ」になるようです。そして、それを通じて個人の内部でも地域清掃に関する内なる声との自己内対話が始まります。これを垂直方向のダイアローグになると考えます。

 これは一見単純なものに思えますが、これまでの授業では教師のもつ正解を子供たちに教えようとしてきました(そのつもりはなくても、結果的にそのようになることが多かったように思います)。いわゆる、垂直方向の権威的存在(教師)から個人に向けられた指導になっていたのです。

 しかし、オープンダイアローグの考え方を参考にすると、道徳科授業における対話は、水平方向の対話(他者との対話)が垂直方向の対話(自己内対話)を支える、または抑える役割になると考えることができます。垂直方向の対話、いわゆる「内なる声」も時に超越的な権威として作用します。これまでの経験から「絶対に〜だ」「どうせ〜になる」という声で個人の変容を防いでしまいます。しかし、水平方向のダイアローグによって支えられた状況のなかで垂直方向の対話が行われることで、垂直方向の声を過剰に権威化させることなく、個人における変容を引き起こすことが可能になるということをセイックラは論じています。ここに、道徳科における「他者との対話」の必要性を見つけることができます。


《引用参考文献》

石原孝二・斎藤環(編)『オープンダイアローグ 思想と哲学』(2022,東京大学出版会)

2022/05/08

経験が言語化された授業


 先日、「自己を見つめる」とは児童生徒の「言語化しにくい経験を言語化する」ということになるということを述べました。今日はその具体例を考えてみようと思います。

 小学校高学年で、地域清掃を扱った教材で授業をした際の話です。「地域をきれいにしたい気持ちはある。でも、自分はできないかも・・・」ということについて学級で話し合っていた時です。ある児童が「僕も川を一人で掃除をしたことがある。でも、みんなの視線に耐えられなくなって途中でやめてしまった。それ以来、やっていない」という経験を発表しました。それを聞いた瞬間、教室の時間が一瞬だけ止まったように感じました。もしかしたら、授業者が想像していない発言だったので授業者の思考だけが一瞬止まってしまったのかもしれませんが、教室のみんながその児童の発言の続きと、教師がどのように応えるのかに注視していたように思います。

 おそらく、その児童の経験はこれまで学級の誰にも話をしていなかったものです。それが授業での発問や話し合いを通して初めて言語化されました。その結果、その経験はその児童の外部に出たことになります。授業者は、他の児童に「今から少しこの経験について二人で話をしてもいいかな」と伝えた後、その児童に「先生はすごいと感じたよ。なぜ、清掃をしようと思ったの?」「みんなの視線が気になった時、心の中でどんなことを考えた?」等といくつか尋ねました。このやりとりは授業者とその児童の二人のやりとりでしたが、周りの児童はそのやりとりを真剣に聞いていました。そして、自分なりに「地域の清掃をすること」について考えていたと思います。まさに、一人の児童へのリフレクティングを見せることで、周りの児童にも自己をふり返らせていたことになります。もちろん全員に発言を求めることは授業時間的に厳しいですし、無理に発言させる必要もありません。みんなの真剣に聴いている表情が、何よりの反応になっていたからです。それぞれが心の中で自己の経験を言語化する時間になればよいのです。

 さて、その児童の経験は言語化することで外に出ました。そうすることで、その経験に今の自分から見た「意味」が生まれたのです。「あの時は恥ずかしかったけれど、今の自分から見ると、とても素晴らしいことだったんだ」「みんなの視線も、僕を褒めてくれていたのかもしれない」という具合です。道徳化授業で重視される「自己をふり返る」とは、このようなことをいうのではないでしょうか。

2022/05/07

経験を言語化する


 道徳科授業での「対話」では、「他者との対話」「教材との対話」「自分との対話」の3つの対話が必要とされています。しかし、この説明だけでは「対話」というものがどのようなものなのか曖昧であり、その必要性や効果がよくわからないという感想が正直なところではないでしょうか。そこで、「対話」についてオープン・ダイアローグの考え方をもとに考えていきます。なお、オープン・ダイアローグについてはこれまでにも紹介してきましたので、どうぞそちらをご覧ください。

 オープン・ダイアローグを開発したセイックラ(2016)は、言語とコミュニケーションが現実に意味を与えていくとしています。そのうえで、患者と家族と治療チームが対話をすることにより現れる効果を以下のように述べています。


(以下、引用参考文献より抜粋)

 患者は言語化しにくい経験を言語化し、語られていなかったことを語ることで、自分を圧倒してくる経験を他者と共有可能な空間に連れ出すことになる。そうして、対話によってその経験は新しく意味づけられ、患者は自分の経験から距離がとれるようになり、自分自身の人生に主体性を回復する(セイックラ/アーンキル2016 66)。

(以上)


 セイックラの言葉から道徳化授業における対話について考えてみます。ここで意識をしたいのは、何のために対話をするのかということです。例えば二項対立で活発な意見のやりとりがされているとします。止まることなく意見が出てきているので、一見すると「対話」をしているように見えます。しかし、これが道徳科が求める「対話」なのかと尋ねられたら、私は「違う」と答えます。

 道徳科では、対話を通して自己を見つめること、そして、自分の生き方を考えることを求めます。セイックラの言葉を借りると、「自己を見つめる」とは児童生徒の「言語化しにくい経験を言語化する」ということになるといえないでしょうか。そして、「自分の生き方を考える」とは、「経験に新しい意味をもたせる」ことで初めて可能になることなのだと、私は考えます。

 そうであれば、教材や発問を通してどのように子供たちの経験を想起させ、どのように言語化をさせるか(教材の人物になったつもりで言語化するというものも含みます)。発問を考える際に大事にしたい視点はこのようなことではないでしょうか。

 さらに、ふり返りの中でこれまで誰にも語ったことのない経験を語り(書き)たくなる。そのような授業作りを目指していきたいものです。


《引用参考文献》

石原孝二・斎藤環(編)『オープンダイアローグ 思想と哲学』(2022,東京大学出版会)

2022/05/04

人権ポスターを描く


 多くの自治体で「人権ポスター」のコンクールが実施されています。しかし、啓発活動への活用を考慮する必要があるので、提出締切が4月〜5月頃になってしまいます。「年度当初の慌ただしい時期に人権ポスターを描かせる余裕がない・・・」という方もいることでしょう。本日は、この「人権ポスター」の意義を述べてみます。

 まず、何のために取り組むのか。その目的は、人権ポスターを描くことを通して児童生徒の人権感覚を養うことです。それゆえ、「描きなさい!」「このように描けばいいですよ」と指示をするだけではその目的は達成できません。図工科の技法を学ばせるだけでもいけないのです。

 それでは、人権ポスターを描かせるために大事なことは何なのか。それは、先日からお伝えしているカリキュラム・デザインです。例えば、道徳科の授業でいじめを許さない心(公正、公平、社会正義)を育てる。これは人権教育の態度的側面になります。そのうえで、特別活動で「いじめをなくすために自分たちは何ができるか」を考えさせます。その話し合いの中で「ポスターを描いて学校内に掲示する」という案が出てきたとします。ここに「人権ポスター」を描く意義が生まれるのです。これは一例ではありますが、道徳科授業で「いじめを許さない心」が育っているからこそ、主体的にポスター作成に取り組めるということになります。

 「いや、4月にゆっくりと取り組む時間はない」という反論が聞こえてきます。例えば学年によっては「2学期(3学期)に取り組み、翌年度のコンクールに提出する」という計画も考えられます。そうすれば、じっくりと取り組むことができる上に、新年度の慌ただしさも解消できます。まさにwin-winの年間計画ではないでしょうか。

 他にも、国語科の授業で、いわゆる戦争教材や、愛や友情を扱った教材を学習したとします。その事後活動と関連させて図工科でポスターを描くということも考えられます。図工科での学習内容をきちんと指導することで国語科と図工科をつなげることもできます。

 このように、人権ポスターを描く意義をしっかりと理解した上で、どうすれば効果的に取り組めるのか、教科・領域とどのようにつなげていくのか。その視点を大事にしてはどうでしょうか。

2022/05/03

人権教育の研究大会の意義


 先日の記事で「人権教育の推進にはカリキュラムデザインが大事である」ということを述べました。その続きとして、本日は人権教育の研究大会について述べてみます。

 「研究大会」を開催するとなると、その準備に負担を感じる方が多いでしょう。その中でも、当日の授業公開の準備を特に大変だと感じるのではないでしょうか。

 しかし、先日述べた通り人権教育で大事にしたいことはその学校でのカリキュラム・デザインです。あなたの学校の福祉学習は、子供たちの心に届いていますか。いじめに対して6年間をつなぐカリキュラムが構築できていますか。平和学習を6年生の社会科のみで終えていませんか。

 それらのカリキュラムを見直す場が研究大会になるのです。公開授業の発問や展開を協議・検討する場ではないということです。子供たちの深い学びをデザインしたカリキュラムになっているのか、そのことについて発表・検討する場になるのです。そして、そのカリキュラムの一環を当日公開するのです。

 さて、そうは言ってもやはり公開授業は気になるところです。ここで意識したいのは、その授業での学びは人権教育の3つの側面のどれに当たるかということです。知識的側面ですか。態度的側面ですか。それとも、技能的側面ですか。

 人権教育の大会で必ず道徳科授業を公開する必要はありません。他の教科・領域でも問題ありません。あくまで、学校全体のカリキュラムの一部を切り取って公開することになるので、どの場面を切り取っても構わないのです。ただし、どの人権課題を扱っているのか、人権教育のどの側面の育成をねらっているのか、そして、カリキュラムのどこに位置付けられているのか。それを明確にする必要があるでしょう。

 また、様々な人権課題について、「本校は当事者がいないので関係がない」としてしまうことは大変危険です。なぜなら、差別は「外」で起こるからです。差別をするのは、人権課題によって苦しんでいる方々ではありません。一見無関係な立場の人が差別や偏見を引き起こすのです。そうであれば、子供たちを「差別する側」にしない教育が大事になるのです。

2022/05/02

カリキュラム・デザインと人権教育


 人権教育で大事なことはカリキュラム・デザインである。これが私の「人言教育の推進」に関する現状理解です。

 例えば、人権課題の一つである「ハンセン病」を授業で扱うとします(光村の5年生教科書に「だれもが幸せになれる社会を」という教材があります)。道徳科授業で、差別・偏見を許さない心を育てようと考えます。いわゆる、人権教育における『態度的側面』の育成です。しかし、「ハンセン病」に対する知識がなければ、その心の育ちは不十分なものになる可能性があります。そこで、人権課題に対する正しい知識を得る学習を設定する必要が出てきます。専門家の方にお話を聞く機会を設けるなどが考えられます。これが人権教育における『知識的側面』の育成になります。そして、総合的な学習の時間に、自分たちでできることを考え、実際に差別・偏見の解消につながる行動を一つ起こしてみる。これは『技能的側面』の育成になります。このような「カリキュラム・デザイン」を大事にすることが、人権教育の推進において大変重要になるのではないかと思っています。

 上記のことに関して、一つの経験を紹介します。ある年、教室に手話の本を置いていました。合唱曲に合わせて手話の練習をすることもありました。手話を知ってほしい、使えるようになってほしいという担任としての願いでした。

 ある日、その手話を使って授業中にこっそりと会話をする子がいました。秘密の暗号のように、ひそひそと学習内容に関係のないやりとりをしていたのです。これは、「手話を使う」という技能的側面を身につけさせたいという担任の想いだけが一人歩きし、障害のある方の願いや苦しみを理解しようとする態度的側面や、手話が生まれた背景や社会の障害者差別に対する施策などの知識的側面の学びが不十分だったから起こったと想像できます。

 上記の例からもわかるように、様々な人権課題を解消しようする社会の担い手の育成に向けて、どのように学びをデザインするか。人権教育の推進にはこのカリキュラム・デザインが大事になるのです。

2022/05/01

心と心のあく手


 明示図書出版『道徳教育』(2022年5月号)に、教材「心と心のあく手」の作成者の方の原稿が掲載されていました。本教材は、児童の作文から構想を得て作成されたとのことで、その児童の「心配でたまらなかった。おばあさんが転んでも助けられるように忍者のように後ろを歩いた」(本文より抜粋)という心情を大事にしながら、安易に教材を批判をすることなく授業をしないといけないと強く感じました。

 さて、本教材の活用について、木下教諭は以下のように述べています。

(以下、原稿をもとに筆者作成)


(1)明確なねらいを定める

 声をかけた場面と見守った場面の二つの親切は、どちらも価値ある行為である。だからこそ、どんな親切に気づかせたいのか、明確なねらいを定めて授業を構想する必要がある。


(2)授業の方向性を定める

 道徳的な価値理解を深める授業なら「本当の親切について考えよう」という方向性が考えられる。また、親切にはさまざまな形があるという、親切に対する見方・考え方を広げる授業なら「さまざまな親切について考えよう」という方向性が考えられる。


(3)見守る行為のよさを問うのではない

 2回目におばあさんと出会った主人公は「見守る」を選んだ。ここで大事にしたいのは「見守る」行為のよさを教えるのではないということ。「見守る」という行為を入り口として、そう判断した主人公の心を掘り下げたい。


(4)何が同じで、何が違うのか

 最初に声をかけた主人公と最後に見守った主人公を比較する。「何が同じで、何が違うのか」。これが深い学びにつながる問いとなり、道徳的価値を理解する道筋となる。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年5月号』(2022,明示図書)

2022/04/30

問い返し

 道徳科授業において、子供たちの発言に応じて即興的に出す発問を「問い返し」「切り返し」「補助発問」など、様々な名称で呼んでいるようです(論者によって呼び名が異なるので、明確な決まりはないと理解しています)。

 さて、深い学びを目指すためには、子供たちの思考や発言に応じた発問が必要になります。ここでは、問い返し発問について、髙宮(2020)が整理しているものについて考えます。髙宮は「問い返し」を大きく二つに整理しています。


 一つ目は、明確化のための「問い返し」です。

(髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成)

 

 上記の「問い返し」は、子供たちの思考を深めるための発問だと言えるかもしれません。子供たち自身が「そう言われたら、何でだろう・・・」と考えることで、気づいていない本当の気持ちや、自分が大事にしていることに気づかせることができるからです。

 しかし、この発問を発言者のみに頻繁に返してしまうと、発言を苦しく感じる子もいるでしょう。また、他者との対話につながりにくい側面もあります。そこで、一人の子供の発言を全体に問い返すという返し方も重要になってきます。「◯◯さんはとてもうれしいと言っているけれど、その理由をみんなは想像できますか?」という具合です。


 二つ目の「問い返し」は、「重層的な問い返し」です。

(髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり  教材の価値分析で発問力を高める』を参考に筆者作成)

 

 上記の「問い返し」(重層的な発問)は、事前に子供たちの思考や発言を予想して用意していることもあるので、地域によっては「補助発問」と呼ばれることもあるでしょう。こちらは、思考を広げるための「問い返し」と言うことができるのではないでしょうか。

 この思考を『深めるため』と『広めるため』の問い返しを、日々の授業で効果的に活用していきたいものです。


《参考引用文献》

髙宮正貴『価値観を広げる道徳授業づくり 教材の価値分析で発問力を高める』(2020,北大路書房)