2022/04/11

生活の中での自己語り

 学級でトラブルがありました。あなたは担任としてどのように声をかけますか。

A「なぜ、そんなことをしたのか?」を尋ねる。

B「どのようになりたかった(したかった)のか?」を尋ねる。


 多くの先生は、子供たちの話をしっかりと聞こうとします。事実を正確に聞き取り、その原因を探り、今後の対応策を考えます。このような対応は一般的であり、誠実な対応だといえるでしょう。

 しかし、「この尋ね方ではうまくいかなかった」という経験をもつ先生も多いのではないでしょうか。この対応は、上記のAになります。トラブルの原因を尋ねているのです。しかし、このような尋ね方では、その責任の所在は相手側に存在することになります。「相手が◯◯をしたから、私は〜をした」となります。

 上記のBは、自分のイメージを語らせることになります。「私は◯◯をしたかった(なりたかった)」となります。語るべき対象が自分になるのです。

 道徳科授業と同じように、自己を語ることで、そこに違和感が生じます。「自分が正しい」と思っていた子が、自己を語ることでその違和感を自覚し、行動をふり返り、よりよい行為を想像できるようになるのです。そうすることで初めて、他者の行為の意味を理解し、自らの生き方(友達との関わり方)を考えることができるのです。

 道徳科授業で重視されている「対話(自分をふり返る)」は、日々の学校生活でも大事にしていくといいでしょう。

2022/04/10

対話する集団


 道徳科授業は「対話を通して自己の生き方を考える」ことを目的としています。逆の視点から考えると、「対話ができる」ということが道徳科授業が成立するための絶対的な条件となります。

 しかし、4月の学級開きの時点で対話が成立する学級はありません。年間を通じて対話が成立する学級集団を作っていくことが必要となるのです。では、そのために大事になることは何でしょうか。

 よく見かけるのが、教室前面に「話型」を提示するというものです。しかしながら、その掲示物が色褪せていることもよく見かけます。「話型」の提示だけでは、私は十分ではないと考えています。では、どうすればよいのか。

 一つの提案として、日々の授業の中で、発問を通して対話を促していくということを意識してはどうかと思っています。ある子の発言に対して、教師が「なるほど。いいね」と応えるのではなく、「◯◯さんの意見について、どう思う?賛成?反対?」と尋ねるのです。「◯◯さんの考えに、納得できる?」と、一人の意見を全体に返していくのです。教師は対話のファシリテーターとなって子供たちの意見をつなぎ、対話に生み出すのです。

 この「一人の意見を全体に返す」ということは、子供たちが「他者の意見をよく聴く」という効果も生み出します。これこそ、対話の必須条件になるのではないでしょうか。

 他にも、対話を重視するのであれば机の配置への配慮も必要です。子供同士の対話を求めるのに机の向きが黒板に向いているのであれば、私は違和感を感じます。学級の人数にもよりますが、子供同士が目を合わせられる向きにしてあげるだけで、「対話が大切だよ」という暗黙のメッセージになるでしょう。

2022/04/07

態度・知識・技能


 ある年、学級で手話を教えました。手話を知ることで、障害のある方々の生活に思いを巡らせてほしいと願いました。教室に手話の本も置きました。すると・・・、手話を使っておかしな会話をする子が出てきました。

 その時、「手話だけを教えても意味はない」ということを身をもって学びました。なぜ、手話を必要とするのか。手話を使っている方々はどのような思いを持っているのか。そのようなことも子供たちに学ばせる必要があったのです。まさしく、人権教育の3観点の重要性に気づくことができたのです。

 人権教育では、態度的側面・知識的側面・技能的側面の三つの側面を育てることが大切だとされています。手話の例を使って考えると、

・態度的側面・・・手話を使っている方々の思いに共感する。

・知識的側面・・・手話の成立の歴史や現状を知る。

・技能的側面・・・手話を使って会話ができるようにする

となるでしょうか。私は、このうちの技能的側面のみに焦点を当てていたのです。それゆえ、態度的側面や知識的側面への配慮が足りず、おかしな会話をするような状況になってしまいました。

 道徳科授業で育てるのは、主に「態度的側面」になります。総合的な学習や特別活動、社会科などの他教科・領域と関連させ、知識的側面や技能的側面も育てていくことが、子供たちにとってよりよい人権教育となるのです。

2022/04/06

「なぜ」を問う


 道徳科授業の発問について、「行動の要因(なぜ◯◯は、〜をしたのだろう)を問うてはいけない」と教わったことがあります。私は「〜してはいけない」というような決まりがあまり好きではありません。多くの場合、理由が明確ではないからです。

 そこで、この「なぜを問うてはいけない」という暗黙の決まりの理由を、私なりに考えてみました。

・「なぜ」と問うと、行動に着目させることになる。

・道徳科は心の勉強なので「どんな気持ちだったか」などのように問うべきである。

・「なぜ」は想像の自由度が増すので、授業が多方面に流れてしまう恐れがある。

などの理由が考えられました。しかし、本当に道徳科授業では「なぜ」と尋ねてはいけないのでしょうか。私は決してそう思いません。

 ただし、「なぜ◯◯は〜をしたのだろう」と直接的に問うことで、子供たちが考えづらくなってしまう場面もあります。そのような場合は、「なぜ」を使わずに「なぜ」を問うことが必要になります。

 例えば、いじめを止めようとする中心人物の変容について考えさせるとします。「なぜ◯◯は、やめようよと声をかけられたのかな」という発問を、「◯◯の『やめようよ』という言葉の中にあるのは勇気だけかな?」とすることで、多様な理由を引き出すことができます。「〜だけかな」というキーワードを提示することで、「先生、他にもあるよ!」という反応を期待できるからです。

 これはほんの一例ですが、ここに授業づくりのおもしろさと難しさがあるといえるでしょう。「なぜ」を使わずに「なぜ」を考えさせる。「もしあなたなら」を使わずに「もし僕なら」を引き出す。そのような発問を日々の授業で考えていきたいものです。

2022/04/05

みな、やっとの思いで坂をのぼる


 永野三智氏の著書の中に「大きな声にならない人の証言を、日常の中でていねいに聞き取り、綴って行きたいと改めて思います」という記述がありました。この言葉に、自身の教員生活をふり返りました。

 教室の中の「小さな声」をどれぐらい丁寧に聞こうとできていたか。なんとなく楽しい雰囲気の学級の中に、小さな声で苦しさを訴えている子がいることに気づけていたか。

 道徳科授業においても同じことがいえます。子供たちが抱いている違和感を大切に聞き取れていたか。教師の導きたい解に全員を連れていこうとして、納得できていない子の小さな声をないがしろにしていなかったか。日々反省しながら過ごしていきたいものです。

 最後に、永野氏のメッセージを紹介します。

(以下、抜粋)

市内外での差別は、新聞に載ってようやく認められてきましたが、載らないからといって「差別がなくなった」わけではないのです。声にならない声を無意識のうちに「なかったこと」にすることの怖さ。

(以上)

 道徳教育・人権教育を通して身につけさせたいものは、この「声にならない声に気づこうとする心」なのではないかと、私は思っています。


永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者のいま』(2018,ころから株式会社)

2022/04/04

水俣病と人権教育


 皆さんは水俣病をご存知でしょうか。社会科で学んでいるのでもちろんご存知でしょう。では、問い方を変えます、皆さんは水俣病についてどれぐらい知っていますか。今、苦しんでおられる方々のことを、どれぐらい具体的に想像できますか。

 水俣病について、ぜひ紹介したい書籍があります。永野三智氏の著書『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者のいま』です。水俣病で苦しんでおられる方々の相談を永野氏が丁寧に聞き取り、その事実と永野氏の思いを綴ったものです。

 この本を手に取ると、水俣病と過去と現在を知ることができます。何も知らなかった自分に気づくことができます。教師として自分がやるべきことを考えさせられる一冊です。

 道徳科授業の中で、私は水俣病について考えさせたいと常々思っていました。よりよく生きようとされている患者の方々、それを支えている支援者の方々、その人たちの気持ちを子供たちと考えたいのです。

 しかし、一時間の道徳科授業では現実に迫ることはできません。そこで、人権教育として他教科・領域とつなぎ、その事実や現状をしっかりと学ばせる必要があります。道徳科授業では「公正、公平、社会正義」として、人権教育としては「知識的側面」が中心となるでしょうか。

 そして、「水俣病」という人権課題を通して、他の人権課題にも目を向けさせることも重要になります。なぜなら、社会の不合理(差別や偏見)の構図には共通点があるからです。一つの課題を他の課題に広げていく。その際に教科・領域の枠を超えた学びを進めていく。人権教育は、まさにカリキュラム・マネジメントにより成立する学びなのです。


永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者のいま』(2018,ころから株式会社)

2022/04/03

道徳教育と人権教育


 道徳教育と人権教育について、両者の違いを「思いやり」を例にして考えてみます。

 道徳教育では、他者を「思いやる」という行為について多面的・多角的に考えます。他者との対話を通して自身の過去を想起したり語ったりすることで、自分の生き方についての考えを深めます。

 しかし、社会に存在する不合理(差別、偏見)は、「思いやり」という態度(心情)だけで解消できるものではありません。正しい知識が必要であり、行動するための技能も求められます。

 例えば、家族が病気になったとします。家族を心配し、優しく接してあげたいと強く願う心情は、まさによりよく生きるための道徳性でしょう。家族と共に歩んできた過去を想起し、その時の喜びを思い出す。よくなることを願い、少しでも安心を届けようと思いやる。まさに、家族という他者と接することで自分の生き方を考えているといえます。

 しかし、その「思いやる」というやさしさだけでは、その現状を打破できません。病気になった家族がよりよく生きるためにどのような支援を受けられるのか、どこに相談すればよいのか、どのように手続きをするのか、そのような知識や技能も必要です。

 人が幸せに生きられる社会を構築するためには、道徳教育で育てる「態度(心)」と、人権教育を通して学ぶ「知識」と「技能」が必要になるということです。両者が学校教育の礎であり、同時に両輪でもある理由がここにあります。

2022/04/02

道徳教育と人権教育


 道徳教育と人権教育、どちらも学校生活の全ての場面で行われるべき教育活動です。いわば、学校教育の根幹となるものです。しかし、その両者の違いが不明瞭だと感じている方も多いようです。また、両者を相反する者として捉えている方もいます。

 道徳教育の目的は、様々な教材や対話を通して自己をふり返り、自分の生き方についての考えを深めることです。 

 人権教育の目的は、社会の中にある不合理に気づき、それを解消しようとする知識・技能・態度を育てることです。

 例えば、ある人権課題を扱った教材で授業をするとします。道徳教育としてその授業をするとなれば、その人権課題を通しての「自分」に目を向けさせます。対して、人権教育として授業をするとなれば、その人権課題を生み出している「社会」に目を向けさせます。思考のベクトルが異なるということです。