2023/12/12

「はしの上のおおかみ」のおおかみの気持ちを考える


 小学校1年生教材「はしの上のおおかみ」に登場するおおかみの気持ちの変化について考えます。

 本教材では、「意地悪をした時より、親切にした時の方がずっといい気持ちになる」ということを子供たちに考えさせることをねらいとしていることが多いです。両者を対比させて考えさせる授業をよく見かけますが、ここで意識させたいことは、「意地悪をした時の気持ち」と「親切にした時の気持ち」は、同じ「いい気持ち」なのかということです。

 図のように、気持ちの「大きさが変化」したのか、「種類が変化」したのか、子供たちはどちらの認識をもつでしょうか。この二つの気持ちの違いについて、本教材ではきちんと考えさせる(理解させる)必要があるでしょう。

2023/12/11

教材「はしの上のおおかみ」の基本発問を考える(2)

 

 小学校1年生教材「はしの上のおおかみ」の、「意地悪をした時のおおかみの気持ち」を考えさせる基本発問について考えます。

 日頃から意地悪をされている子が学級にいると想定します。その子が「意地悪をした時のおおかみの気持ちは?」と尋ねられると、「うさぎさんに悪いことをしたな」という発言をするかもしれません。この発言は授業者が意図するものではないかもしれませんが、その子の日常から生まれた心の声です。もし、授業者がこの発言を否定するようなことがあれば、その子の心は救われないでしょう。

 このような発言こそ、「もう少し教えてくれる?」と問い返し、その背景を聞こうとする授業者の人権感覚が求められます。もしかすると、意地悪をしたときのおおかみの心の中も、「おもしろい」という気持ちが大部分を締めていたとしても、「悪いことをしたなぁ」という気持ちも少し混ざっていたのかもしれません。だからこそ、くまの親切が心に響いたのかもしれません。「悪いことをしたな」という発言を想定することで、教材分析にも変化が生じます。

 「発問」によって一人ひとりの子供たちがどのような印象をもつのか、その「発問」によって苦しさを感じる子はいないか、今一度見直していきたいものです。

2023/12/10

教材「はしの上のおおかみ」の基本発問を考える(1)


 小学校1年生教材「はしの上のおおかみ」の基本発問について考えます。

 この教材の定番の基本発問として、「意地悪をしているおおかみは、どんな気持ちだったかな」という発問をよく見かけます。物語前半の意地悪をしている時の気持ちと、後半の親切にした時の気持ちを対比させるための授業展開のための発問です。

 この授業展開に異論はありませんが、ここで一度、その基本発問を見つめてみようと思います。例えば、学級にいる「意地悪」をされている子にとって、この発問はどのような思いをもたらすでしょうか。意地悪をされて嫌な思いをしているのに、授業では「意地悪はおもしろい」「気持ちいい」などの発言を聞かされると、何ともいたたまれなくなってしまいます。

 意地悪をされている子にとって、意地悪をしている時のおおかみの気持ちは、「うさぎに悪いことをしてしまったな」「意地悪してしまったけど、あやまりたいな」という思いであってほしいのではないでしょうか。

 「いじめ」を扱う授業で、「いじめって、おもしろいよね」という発言を道徳科の授業で求めるでしょうか。「差別」を扱う授業で、「差別って、気持ちいいよね」という前提で授業を進めるでしょうか。しかし、この教材では、当たり前のように「いじわるって、おもしろい(気持ちいい)」という発言を求め、それを前提として授業が進みます。このことに、授業者として違和感を抱き、定番の発問を疑ってみるという授業者の姿勢が必要なのではないかと考えます。



2023/12/09

道徳科の論文執筆

 

 日本道徳教育学会会報(第76号)に、田沼茂紀氏が「なぜ論文執筆をするのか」という記事を執筆しています。

(以下、抜粋)

 論者がまず己に問いかけるのは、その研究によって何が明らかになり、論文化することでどのような社会貢献が可能になるのかという二点です。つまり、自己満足のための論文書き、書くことが目的化した論文ほどつまらぬものはありません。

 先ず取りかかるのは、日々取り組んでいる研究テーマについて「問題の所存」を鮮明にする作業です。なぜなら、問い無きところに解は存在しないからです。問いが明確になれば、それをどう追及して目指すべき結論を得ようとするのかという「研究目的」となるゴールが設定できます。

 次に、ゴールへどのように辿り着くのかという「研究方法」を柔軟な視点で考えます。凝り固まった発想からは、凝り固まった結論しか得られません。その論述を目にしただけで半ば結論が見えてしまうのは、読み手に失望を与えるだけです。

 研究方法が固まったら、それを解明するための道筋について「推論・仮説」を設けます。そうしないとただ闇雲に突き進むことになります。その推論や仮説を解明することこそ、「研究内容」そのものです。文献研究であれ、調査研究であれ、実証研究であれ、しっかりと先行研究を踏まえながら本研究で見出した結果や結論を手掛かりに丁寧に論証し、自らの推論や仮説がどうであったのか考察していきます。

 最後にその研究で得た「全体考察」を述べますが、そこで大切なのは得た知見から新たに生じた「今後の課題」です。研究にゴールはありません。常に新たな課題が必ず立ちはだかるのです。

(以上)

 道徳科の論文や実践報告に取り組む際に参考にしたいと思います。


《参考引用文献》

日本道徳教育学会会報 第76号(2023年4月)


2023/12/08

道徳科授業の発問研究(10)〜6年生「ロレンゾの友達」〜


 道徳科の教材文を読んでみると、小さな違和感や疑問を感じることがある。その違和感や疑問こそ、「発問」のヒントになるものである。このことは、「この教材は、この授業の仕方が当たり前」と思って読んでいると見つけられないものかもしれない。いつでも初めてその教材を扱うつもりで、そして、何度も繰り返し読み込むことで見つけられるものであり、ここから「発問」を考えることができるのである。

 ここで、内容項目B「友情、信頼」の第6学年教材、「ロレンゾの友達」(出典:6年生「生きる力」日本文教出版)の発問を考えてみる。本教材で気になる一文は、町の警察署で、ロレンゾと、アンドレ、サバイユ、ニコライの3人が再会する場面の、「四人は大笑いをしながら、あらん限りの力でだきしめ合った。」という一文である。それまでにロレンゾのことを疑っていた3人は、なぜあらん限りの力で抱きしめ合うことができたのか。もし、疑っていたことを申し訳なく思っているのなら、果たして力の限り抱きしめ合うことはできるものだろうか。本教材では、最後の場面で3人が本当のことを打ち明けずに悩みながら帰路に就く様子が描かれているが、悩んでいる3人が再会時に力の限り抱きしめ合えていることに、矛盾が生じているのではないかと考える。

 子供たちに、「3人は、なぜ正直に言えなかったのか」と問うと、「申し訳なくて言えない」「信頼を失いたくない」などの意見が出てくる。ここでこそ、子供たちの思考をゆさぶる発問として、「なぜ、力の限り抱きしめ合うことができたのか」と発問したい。「力の限り抱きしめ合う」とは、相手を信頼し合うからこそできる行為である。そうであれば、子供たちもその矛盾に気づき、考えざるを得ない状況になるのではないだろうか。

2023/12/07

道徳科授業の発問研究(9)〜1年生「かずやくんのなみだ」〜


 内容項目C「公正、公平、社会正義」の小学校1年生教材、「かずやくんのなみだ」の「発問」について考える。解説には、低学年の特徴として、「多数ではない立場や意見に対し偏った見方をする」「人も自分も同じ感じ方や考え方であると考える」ということが書かれている。

 本教材は、「ぼく」や「さとし」を含む学級のみんなが、「かずや」を鬼ごっこに誘っていない。走るのが遅いという偏った見方が原因で「かずや」は仲間はずれにされている。

 内容項目Cは、集団や社会との関わりについて考えることが求められる。そこで、本教材でも、「ぼく」と「さとし」以外の「みんな」を登場させる。例えば、ぼくが気づかないふりをしている場面で、「みんなも同じようにしているのだから、正しいことだよね?」と尋ねるだけで、「おかしい」という意見が引き出せる。「みんなが言っていても、間違えていることがあるの?」と、さらに問い返すことで、多数がいつも正しい訳ではないことに気づかせることができる。

 また、解説の中には、「偏見や差別が背景にある言動については、毅然として是正することが必要である。」「公正、公平な態度に根ざした具体的な言動を取り上げて、そのよさを考えさせるようにすることが大切である。」という記述もある。

 本教材は、中心人物であるぼくの心情を考える授業が多く見られる。しかし、集団との関わり方を考えさせることが求めらる本内容項目では、それに加えてさとしの言動についても取り上げることで、日々の生活の中での不合理について考えさせることができる。

 例えば、さとしは、すぐに笑顔でかずやを受け入れたのである。「どのような、どれくらいの笑顔だったのだろうか」「その笑顔に、ぼくやかずやは何を感じたのだろうか」と、さとしの公正、公平な態度に根ざした具体的な言動のよさを問うことで、道徳的諸価値のよさを実感することにつなげられる。

2023/12/06

道徳科授業の発問研究(8)〜3年生「まどガラスと魚」〜


 3年生教材「まどガラスと魚」の「発問」を考えてみる。中学年の内容項目「正直、誠実」は、「自分を偽らない」ことがキーワードとなる。それは、自分の「正直でありたいと思う心に嘘をつかない」ということであり、中心人物の千一郎の心の中の「謝りたい」という気持ちに焦点を当てることがポイントになってくる。

 そこで、実際の授業では、「千一郎に、『謝ろう』という気持ちが初めからあったのか」ということを確認しておきたい。文助の「にげろ。」という声を聞き、夢中で逃げてしまった千一郎。もし、その声がなければ、千一郎はどうしていたのか。解説にも、「正直に伝えるなどして改めようとする気持ちを育むことも求められる。このことは、たとえ仲の良い仲間集団の中にあっても、周囲に安易に流されない強い心を養う要ともなる」と記載されているが、このときの千一郎は、謝りたいという気持ちはあったが、周囲に流される弱い心であったことを押さえておくことが、この後の心情の理解につながるからである。

「謝っているお姉さんの姿が、千一郎にはどのように見えたのでしょう」という発問も考えられる。「叱られなくてよかった」「ビクビクしなくてよくなった」と安心しているように見えた訳ではないだろう。「堂々としている」「かっこいい」などの意見が出ると予想される。「なぜ、そう思うのか」と尋ねることで、千一郎自身の願いに気づかせるとともに、道徳的価値のよさの深い理解をねらうことができる。

 同じように、「おじいさんから返してもらったボールを見て、千一郎はどんなことを考えただろう」と発問することも考えられる。例えば、この場面で役割演技を取り入れ、千一郎役の児童がボールをどのように受け取ったのかに着目させる。両手で受け取っていたのなら、「ガラスを割ってしまったボールなのに、なぜ、そんなに大事そうに受け取ったのか」と尋ねることで、弱い心に打ち勝った喜びを実感していることや、正直でいることの快適さを自覚していることに気づかせることができる。

 中学年の本教材の授業で、「謝ることが大切だ」「正直に謝ったら、気持ちが楽になる」などの理解で終えてしまうと、それは低学年の学習内容であり、子供たちにとって深い学びにつながる道徳科授業になっているとはいえない。解説の記述をもとに、「何を考えさせるか」を明確にすることで、より深い学びにつながる「発問」をつくることができるのである。

2023/12/05

道徳科授業の発問研究(7)〜内容項目「正直、誠実」〜


 解説の、内容項目の指導の観点を読んでいくと、実際に授業で「発問」のヒントになる記述がされている。指導の観点に書かれている事柄から「発問」を考えることも効果的な方法である。

 ここで、内容項目A「正直、誠実」の授業の発問を、解説の記述をもとに考えてみる。小学校低学年の指導の観点のポイントは以下の記述と捉える。

第1学年及び第2学年

 この段階においては、発達的特質から、特に自分自身の言動を他者から叱られたり笑われたりすることから逃れようとする気持ちが働くことが少なくない。

 低学年のポイントは、「他者から叱られたり笑われたりすることから逃れようとする気持ちが働く」というところになる。この気持ちの働きは中学年以上の児童・生徒にも該当すると考えられるが、低学年の指導の要点に記載されていることから、特にこの発達段階で考えさせるべき学習内容であると判断できる。

 このことから補助発問を考えてみる。低学年の子供たちに上記のような特徴があるのであれば、そのことを直接問うことが有効となる。「でも、正直に言えば、怒られるかもしれないよ」と問う(思考をゆさぶる)ことで、「それでも正直に言わないといけない。だって、〜。」という発言が期待できる。この「だって、〜。」という発言の先に表現される個々人の考え方こそ、道徳的価値の深い理解につながるものになるといえる。

 続いて、小学校中学年の指導の要点のポイントを考えてみる。

第3学年及び第4学年

 特に他者に対してうそを言ったりごまかしたりしないことに加え、そのことが自分自身をも偽ることにつながることに気付かせることが求められる。

 中学年は「嘘をつくと、自分自身をも偽ることになる」という内容になる。そこで、「自分自身を偽るとは、どういうことか」を教師が事前に考え、子供の言葉で表現できるようにしておくことが大事となる。また、「発問」として子供たちに直接、「自分に嘘をつくって、どういうことか」と尋ねることで、考えざるを得ない状況に子供たちを導くこともできる。

 このように、同じ内容項目でも、発達段階によって、考えるべき学習内容が異なるということを理解しておくことが大切なのである。低学年も中学年も、「正直であることのすっきりさ」がキーワードとなるが、その中身は両者で異なるものであり、そのちがいの中にこそ、「発問」のヒントがあるといえる。


2023/12/04

道徳科授業の発問研究(6)〜学習指導要領解説から考える発問〜


 「学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳(以下、解説)」の記述から発問を考えることも大切にしたい。村上敏治(1983)は、道徳授業の抱える課題について、「道徳とは何かについての基本的理解がおきざりにされて道徳授業の技法ばかりが過剰になり、教師にとっても児童生徒にとっても、必然的教育課題になることなくそらぞらしいものになりがちである。」と述べている。

 道徳科授業を計画する際、すぐに「発問」を考える傾向がある。多くの教師が「発問」を最も大事にしているということの表れだろう。研究授業の事後検討会でも、「この発問は効果的だったか」「どんな発問がよかったのか」という議論に終始している。しかし、その前提である道徳的諸価値そのものの理解についての議論はあまりなされていない現状がある。

 例えば、「友情」という言葉も、人それぞれで捉え方は異なる。発達段階によっても捉え方は異なるし、場面や状況によっても異なるものである。道徳科の授業では、その理解の違いに気づかせ、対話を促すことが大事とされる。そして、その違いを引き出すためには、教師自身が授業前に多面的・多角的に「友情」について考えてみようとすることが大事である。そのうえで、その学年の、その教材で、どのような「友情」について考えさせたいのかを明確にすることが求められる(「学習内容」の明確化)。その学習内容が明確になってこそ、その授業で有効な「発問」が生まれるのである。


《参考引用文献》

村上敏治「道徳授業技術双書4 小学校道徳 内容の研究と展開」(1983,明治図書出版)

2023/12/03

道徳科授業の発問研究(5)〜考えざる得ない状況からの脱却〜


 「ゆさぶり発問」をされると、子供たちは考えざる得ない状態になる。山田勉(1987)は、「考える」ということについて、「考えるということは、何らかの条件のなかで、考えざるを得ない状況に追い込まれて、その状況から脱出して、安定した状態を回復するために行われるのである。」と述べている。

 「考える」とは「考えざるを得ない状況から脱出して安定した状態を回復する行為」ということであり、その行為を促すためには、「類比」や「否定」のような「ゆさぶり発問」が必要になるということである。


《参考引用文献》

吉本均監修「社会科のゆさぶり発問」(1980,明治図書出版)

山田勉著「教える授業から育てる授業へ」(黎明書房,1987)

2023/12/02

道徳科授業の発問研究(4)〜ゆさぶり発問〜


 吉本均(1980)によると、「ゆさぶり」発問は、子どもの常識的な解釈や集中・緊張の欠けた平板な授業展開に、問題を投げかけ、授業の流れの中に「変化」をもたらし、緊張関係をつくり出す教師の意図的な働きかけであるとしている。

 「ゆさぶり」発問が、「ゆさぶり」を通して、子どもの思考や論理に、大きな波紋を投じることができるために、吉本たちのグループは三つの型を提唱している。

限定

話し合いを焦点化させるために、あることがらを限定して問うもの。思考がバラバラな場合には「限定」発問をする。

類比

似たもの、両立したものを出して、その二つを比較、弁別することで、より考えを確かめようとするもの。

否定

「類比」によるゆさぶりを、さらに強めて真向うから対立する場面をつくるもの。授業の中で考えが安易に流れそうな時に「否定」発問をする。

                         (引用参考文献より筆者作成)

 この三つの型をうまく組み合わせ、かみ合わせて「ゆさぶり」の効果をあげるわけである。気をつけたいことは、子供たちの思考や発言を、明確な意図なく限定したり否定したりするわけではないということである。


《参考引用文献》

吉本均監修「社会科のゆさぶり発問」(1980,明治図書出版)

2023/12/01

道徳科授業の発問研究(3)〜授業者の役割〜


 道徳科授業で「発問」を行使する授業者の役割についても言及したい。河野哲也(2011)は、「子どもは、ときに経験不足である。自分の狭い範囲の経験しか知らず、人間の交際範囲も限られているかもしれない。歴史や文化比較の知識がないことから、現在の自分が住んでいる社会の出来事を相対化する視点に乏しいかもしれない。議論教育における教師の役割は、教室において欠けているかもしれない多様性をもたらすことである。」としている。

 考え議論する道徳科授業を目指すための授業者の役割は、「教室に欠けている多様性をもたらすこと」であり、その役割を「発問」が担うことになるのである。


《参考引用文献》

河野哲也「道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ」(ちくま書房,2011)

2023/11/30

道徳科授業の発問研究(2)〜変わった質問〜


 精神科医のトム・アンデルセン(2015)は、「自分で問題状況を規定しておきながら、そこにじっとしている自分自身を発見した人は繰り返し繰り返し同じ質問を自分自身に投げかけるのに慣れている。我々がこの規定された問題に対する新しい理解を生み出す過程に寄与するとき、我々は彼らとの会話中に変わった質問をするほかに、どのようにしたら彼らのそれぞれが新しい質問をしはじめる可能性を生み出すことができるだろうか?と問うてみる。言い換えれば、それは、どのようにしたら、我々が話しかけている相手が自分自身に新しい問いかけをしはじめる可能性を作り出すことができるかということである。」と述べている。教師が何のために「発問」をするのか、なぜ我々は、「発問」を吟味するのか。トム・アンデルセンの言葉を元に考えると、「他者(子供たち)が自分自身に新しい問いかけをしはじめる可能性を生み出すため」となる。これは、立場や時代は異なるが、先述の宮地の論と同意のものであると理解できる。

 子供たちは、生活経験の中で、道徳的諸価値についてある程度の理解をもっている場合が多い(理解していると思い込んでいる場合を含む)。しかし、その理解は一面的なものであったり、様々な場面が想定されていなかったりするものである。そのような理解だけでは、改めて自分を見つめたり生き方を考えようとしたりすることは困難である。「そこにじっとしている自分自身」になっているのである。そこで必要なのが、トム・アンデルセンのいうところの「変わった質問」をすることであり、我々教師の場合は、「中心発問」や「補助発問」の吟味なのだと考えられる。


《参考引用文献》

トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳「リフレクティングプロセス 会話における会話と会話」(金剛出版、2015)

2023/11/29

道徳科授業の発問研究(1)〜自ら問いかけさせる〜


 宮地忠雄(1973)は、「道徳の時間の指導では、子どもに、その自己の内面的な世界に、自ら問いかけさせることを授業成否のキーポイントにする。子どもたちは、それをふまえて、みんなでいっしょに考え、ともに語り合って、ひとりひとりが、それぞれ、めざされている道徳的価値について、主体的な自覚をより深めていく。」と述べている。

 「自己の内面的な世界に自ら問いかけさせる」とは、「特別の教科 道徳」の目標にある「自己を見つめる」や「生き方についての考えを深める」という学習活動に通じるものがある。そのうえで、宮地は「これ(自ら問いかけさせること)を可能にするものは、教師の発問にほかならない。」と主張している。このことから、道徳科の授業での「発問」の役割の一つとして、「自ら問いかけさせることを可能にするもの」と理解できる。

 なお、宮地は、このことから、「道徳授業における発問は、教科の、授業における発問とはちがって、特別の意味と役割をもっているものである」とも述べている。


《参考引用文献》

宮地忠雄「道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問」(1973,明治図書出版)

2023/10/29

内容項目C「規則の尊重」


 内容項目C「規則の尊重」の指導の要点について、発達段階ごとに整理します。

 低学年では、身近な約束やきまりを取り上げ、みんなが気持ちよく安心して過ごせるためにあるということを理解させます。

 中学年では、一般的な約束や社会のきまりの意義やよさについて理解をさせるとともに、社会生活の中において守るべき公徳についても学習内容を広げていきます。その際に大事になるのが、相手や周りの人の立場についても考えさせることです。

 高学年では、基本的なマナーや礼儀作法、モラルなどの倫理観を取り上げるとともに、日常生活においての権利や義務についても考えることが求められています。

2023/10/28

道徳科授業での「めあて」


 道徳科授業で「めあて」を提示する際、例えば、「友情について考えよう」とはせず、「仲良しと親友の違いはなんだろう」など、問いの形で出すことが効果的です。

 そうすることで、中心発問の後に、補助発問として、「めあて」について問うことができます。中心発問を教材の中で考えさせて、補助発問で道徳的諸価値についての議論ができることになります。

 しかし、「めあて」について議論をすると、抽象的になってしまうことがあります。その際は、「このお話では、どういうこと?」のように、教材に返すことがポイントです。教師が教材とは異なる例を出したりすると、子供たちが混乱してしまうからです。