2022/05/23

三びきは友だち(1)


 日本文教出版2年生「三びきは友だち」の授業づくりに取り組んでいきます。

 内容項目は「公正、公平、社会正義」。学習指導要領解説によると、低学年の学習内容は「自分の好き嫌いにとらわれないで接すること」になります(上位学年の中学年は「誰に対しても別け隔てをせず、公正、公平な態度で接すること」)。

 本教材を一読して見ると、「この3びきは友達かな?」という疑問が思い浮かびます。この疑問がそのまま発問(授業展開)につながるかもしれないと考えてしまいがちですが、本教材を「友達について考えよう」というねらいにしてしまうと、学習指導要領の学習内容と大きく異なってしまうことに気づきます。

 また、最後の場面で、中心人物である「ぴょんた」が何を考えていたのかを子供たちに話し合わせた時に、「きちんと謝る」という発言をする児童がいることも想定できます。しかし、先述と同様、本教材の学習内容は「悪いことをしたら、素直に謝る」(正直、誠実)というものではありません。

 このように、「自分の好き嫌いにとらわれないで接すること」という学習内容、いわゆる「えこひいきをしない」という思考は2年生の子供たちの素直な感想からはなかなか出てこないものではないかと想像できます。なお、もしかしたら「みんなで仲良く」ということを幼稚園や1年生で教えられてきたかもしれませんが、そのよさを実感しないままスローガンのように使ってきている子が多いかもしれません(これはただの「行為の押し付け」)。同様に、本教材の授業の終末で「みんなで仲良くすることは大事だね」と教師から伝えることにあまり価値はありません。まずは、本教材の学習内容が子供の発達段階による意識から遠いところにあるということを意識した上で、「みんなで仲良くするとは、どういうことか」「そのよさはどのようなものか」を考える授業展開を考えてみてはどうかと思っています。

2022/05/22

あれも これも

 誰かに何かを伝える際に、「〜したほうがいい」と自分の考えを押し付けてしまうことがあります。相手が子どもであれば、なおこの傾向が強くなります。この伝え方には「他者の意識を変えよう」とする思いが隠れています。しかし、他者の意識を変えることは困難であるという事実をきちんと認識しておく必要があるでしょう。

 さて、他者との対話について、矢原(2016)の著書の一節がとても参考になります。

(以下、引用参考抜粋)

 ビューロー=ハンセンによって促されたのが、「あれかこれか」(either-or)から「あれもこれも」(both-and)へのパースペクティヴ(見通し)の変化である。1984年の秋頃まで、アンデルセンたちはセラピーにおいて家族らに何らかの指示をおこなっていた。「あなた方の状況はこうです」「だから、このようにしてください」といった具合だ。そうした振る舞いの前提には、専門家こそが「正解」を有しているという思い込みが存在する。しかしビューロー=ハンセンは、そのような特定の見方にたつことの危うさを指摘した。彼女は施術をおこなう相手の身体の内側から、常に多様な声を受け止めていた。やがて、アンデルセンたちの話し方は、「あなたがたの理解の仕方に加えて、僕たちはこんなふうに理解しました」「あなた方がしてきたことに加えて、こんなことは想像できるでしょうか」というふうに変化していった。それは、一見ささやかな、しかし、決定的な変化であった。

(以上)

 何かを伝えたときに、「そんなのは納得できない」「おかしいと思う」という反応があったとします。感情的に反論を述べられることもあるでしょう。その意見は、相手の正解なのです。そうであれば、その正解はきちんと受け入れてあげることが大切になります。その上で、「私はあなたの言葉を聞いて〜と思いました」「その考えに加えて、〜という考え方もできないでしょうか」「私の考えとあなたの考えの共通点は〜ではないでしょうか」というように、「あれもこれも」という意識で対話をすることが大事なのではないでしょうか。

 

《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)


2022/05/21

人権教育の2本の柱


 人権教育で大事にしたい2本の柱について述べます。

(1)人権についての教育

 「人権課題」についての系統的な学びが大事になります。どの人権課題について、どのようにカリキュラムをデザインするか、まずは子供たちに考えさせたい人権課題を定めます。そして、社会科や総合的な学習の中で、その人権課題についての正しい知識を獲得させます(知識的側面)。道徳科では差別・偏見を許さないという心を育みます(態度的側面)。特別活動で実践力を高めたり国語科で言葉の使い方や伝え方を学びます(技能的側面)。このように、人権教育を推進するということは、人権課題(学習内容)を明確にすること、そして教科・領域のつながりを明確にするということになります。


(2)人権としての教育

 「子供たちの人権を大切にした授業とは?」この問いに私たちはどのように答えたらいいでしょう。まずは、教師がご機嫌でいることでしょうか。他者の考えを受け入れる安心感のある授業でしょうか。どの子も学びの機会が保障されている授業でしょうか。自らの授業を一度ふり返ってみてはどうでしょう。


2022/05/19

人権教育の目的と方法


 人権教育の目的は「社会に存在する様々な人権課題の解消をめざすための態度・技能・知識を育てること」になります。

 そのためには、まずはその学校で「どのような人権課題の解消をめざすのか」を明確にする必要があります。

 次に、学校でのカリキュラムをどのようにつなげていくかが重要になります。



2022/05/18

教師の役割


 道徳科授業における教師の役割について、河野(2011)の論が参考になります。

(以下、抜粋)

 子どもは、ときに経験不足である。自分の狭い範囲の経験しか知らず、人間の交際範囲も限られているかもしれない。歴史や文化比較の知識がないことから、現在の自分が住んでいる社会の出来事を相対化する視点に乏しいかもしれない。議論教育における教師の役割は、教室において欠けているかもしれない多様性をもたらすことである。多様で異質な観点を導入することによって、ピアジュ的な言い方をすれば、子どもの考えを脱中心的にすることができる。

 よって、教師の役割は、老人になることであり、赤ん坊になることであり、文化的に異なったひとになることであり、別の地域の人になることであり、性的マイノリティになることで、過去の人物になることであり、障害や疾病を持った人になることであり、少数派の嗜好を代表することである。その人たちの観点から問題がどう見えるかを示唆することである。

(以上)

 教師の役割は「教室に欠けている多様性をもたらすこと」という河野の提案に、私は「なるほど」と大きく頷くことができます。


《引用参考文献》

河野哲也『道徳を問い直す リベラリズムと教育のゆくえ』(ちくま書房,2011)


2022/05/15

少しの間


 矢原(2016)によると、セイックラは「間」の意義について以下のように述べています。

(以下、抜粋)

「『『お父さんがいなくなったらこわい』とおっしゃるんですね』と話しはじめ、少し間をおくことで、クライアントが本当にそう言いたかったのかを考え直すための『間』をつくるとよいだろう」(Seikkura & Arnkil 2006=2016:69,2014:61-62)

(以上)

 ここで注目をしたいのは「少し間をおく」という表現です。このさりげない表現は、つい読み流してしまうものかもしれません。しかし、セイックラはこの「少しの間」の重要性を説いています。それは、考えを声に出して話すだけではなく、自分が他者に話したことを自分で聞くことができる『内なる対話』を可能にするからです。

 さて、会話においての「間」について、アンデルセン(2007)は三種の間を意識すべきと指摘しています。


三種の間

 ①相手が息を吐いた後、次に息を吸い始める前に生じる間。

 ②何かを話した後、たった今自分が話したことについて考えるために生じる間。

 ③今話したことについてリフレクティング・トークであらためて話され、それによりあらためて新鮮に考えるために生じる間。


 道徳科授業において、例えば②の「自分が話したことについて考えるために生じる間」はとても大事になるのではないでしょうか。子供たちの発言の後、少し間をおいてから「もう少し詳しく教えてほしいな」と伝えることで、その子供の頭の中で「僕はどんなことを話したのだろう。なぜ、先生は僕の発言を聞きたいと言っているのだろう」と「内なる対話」を始めることでしょう。

 また、③の「間」も大事になります。ある児童の意見を取り上げ、その意見を全体で協議する際、その児童は協議を聞くことで自分の発言を外から見つめることになります。頭の中で「自分の思い」と「他者の思い」が対話を始めるのです。その内なる対話のための「少しの間」は、やはりとても重要だと考えられます。

 日々の授業の中に「少しの間」は存在しているか、一度ふり返ってみたいものです。


《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)

2022/05/13

内と外の会話の交替


 矢原隆行(2016)は、「リフレクティング・プロセス」のことを「内的語らいと外的語らいの間を、行きつ戻りつすること」としています。「外的語らい」とは他者との語らいであり、「内的語らい」とは自分自身と語らうことになります。

 さて、「語る」という行為について、話したいと思うことを、彼なりの話し方で、話したいだけ話すことができるような機会を与えるべきであると矢原は述べています。聴き手が注意深く、妨げないようにしなければならないということです。

 他者の話を聞いていると、「それは〜ということでは?」「〜したほうがいいと思いますよ」と、つい口にしてしまいます。しかし、矢原は「さえぎられないモノローグが、内と外の会話の交替から成り立っているように見える」ということから、この「さえぎられない」ということを大事にすべきであるとしています。

 さて、内的語らいは「(相手に対する)話を中止し、『間』ができたときに起こる」ものです。これは、話者(教室では児童生徒)がどこか別の場所に移動している(誰か他の人に会っている)状態になります。視線がさまよい、どこか違うところを見つめているのです。意味を探し求めているのです。

 そして、その「間」の後、視線をそこにいる相手に向け直して、外的な語らいが再開します。そのように考えると、やはり『間』が大事なのだと、改めて感じられるのではないでしょうか。


《引用参考文献》

矢原隆行『リフレクティング 会話についての会話という方法』(2016,ナカニシヤ出版)

2022/05/10

「多様な性」から「多様性」へ


 先日、「多様な性」についての学習会に参加しました。今、セクシャリティーについて悩んでいる子がいます。これから困難に出会うかもしれない子がいます。正しい知識をもたず、今後偏見を抱いてしまう可能性のある子がいます。社会に存在する様々な困難の解消を目指し、これからも学び続ける必要性があると強く感じています。

 さて、その研修で学んだことをまとめます。


(1)「多様な性」から「多様性」へ

 例えば、校内研修のテーマや授業の目標を「LGBTQを知ろう」とすると、自分とは関係ないと思ってしまう人が生まれてしまいます。「多様な性」とすると、必然と自分に関係のあるものになります。そして、授業の出口は「多様性」にしてはどうでしょうか。例えば、セクシャリティはマイノリティでも、他の部分ではマジョリティかもしれない。セクシャリティはマジョリティーでも、他の部分で特権を持っているかもしれないからです。「多様な性」についての学びを入り口として「多様性」について考えさせるのです。


(2)「人肌の温度で伝える」

 「LGBTQの当事者の人に話をしてほしい」という悩みをよく聞きます。しかし、「人肌の温度で伝える」というのはLGBTQの人だけができることではありません。全員が当事者なのです。アライの人の話を聞くことで、自分もアライになれるという道を学ぶことができます。自分を受け入れ支援してくれる人がいるというメッセージを送ることができます。

 大人を対象にした調査で「人はどのようにしてアライになれるのか」というものがあります。調査の結果、アライになるきっかけの一つ目はLGBTQの人の生の話を聞き、困難を共有すること。二つ目は、アライのロールモデルに会うことだとなっています。だから、「私はアライの立場です」と伝えるところから話をしてもよいのではないでしょうか。

 また、カミングアウトを受けたことのある人は、そのことを伝えられます。全ての人が当事者であり、全ての人が「人肌の温度」でLGBTQについて伝えられるのです。


(3)何を伝えたいのか

 なぜ、ここで私(授業者)が話をするのかを明確にしてほしい。その人の思いを乗せることが大事になります。授業者の一人称の話に大きな意味があります。先生の学びや人生の旅路をぜひ伝えてほしい。