道徳的価値の理解とは、「価値理解・他者理解・人間理解」だと学習指導要領解説に記載されています。さらに、この3つの理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考えることで道徳的価値の自覚を深められるとしています。自己を見つめた時に、はじめて自覚が深まるということです。要するに、「理解」とは他人事という段階であり、この「理解」に「自己を見つめる」が入ったとき、自分事にすることができるということです。
指導案を作成する際にも、「〜を理解し」ではなく、「〜を自覚し」と記載してはいかがでしょうか。
道徳的価値の理解とは、「価値理解・他者理解・人間理解」だと学習指導要領解説に記載されています。さらに、この3つの理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考えることで道徳的価値の自覚を深められるとしています。自己を見つめた時に、はじめて自覚が深まるということです。要するに、「理解」とは他人事という段階であり、この「理解」に「自己を見つめる」が入ったとき、自分事にすることができるということです。
指導案を作成する際にも、「〜を理解し」ではなく、「〜を自覚し」と記載してはいかがでしょうか。
道徳科の指導案を読むと、「〜のよさを理解する」という文言をよく見かけます。「よさを理解」とは、その道徳的諸価値のよさ(意義)を押さえるのか、「意味」をおさえるのか、どちらを意図して使われているのでしょうか。
一つの教材(授業)で、「よさ(意義)」と「意味」の両方を押さえることは難しいかもしれません。道徳科の授業は、一つの教材(授業)で、それらのどちらかを押さえられたらいいでしょう。全ての授業で、「よさ(意義)」と「意味」のどちらも押さえる必要はありません。
本教材の登場人物ジェラール王は、「決まりを破った」のではなく、「自分の弱い心に負けた」と捉えることになります。題名が「うばわれた自由」なので、「誰に奪われたのか?」という発問も考えられます。結論を言うと、「自分に奪われた」ということになります。ジェラール王も、自分が家来を大事にしなかったから、自分の自由を奪われました。
ジェラール王は、きまりを破ったのではなく、「自分を抑えられなかった」「自分の弱い心に縛られていた」ということに、例えば板書で視覚化を図るなどして気付かせます。そうすると、「自分を抑えたら自由ではないのでは?」という疑問(補助発問)が生まれ、「本当の自由とは、自分の弱さにも縛られないもの」という、高学年の学習内容についての気付きにつながります。
その上で、中心発問としては「ガリューに言われて、ジェラール王は何を考えたのだろう」と問うことで、子供たちは深く考えようとするのではないでしょうか。
5年生教材「うばわれた自由」について考えます。内容項目は、A「善悪の判断、自律、自由と責任」です。
さて、本教材は人物の言動が対比的に描かれており、一見すると扱いやすさを感じます。しかし、実際に授業をしてみると、どうしても、C「規則の尊重」の視点に流れてしまいます。A「善悪の判断、自律、自由と責任」に子供たちの視線を向かわせるためには、「迷惑をかけない」「決まりを守る」という方向ではなく、「自分を抑える」という方向に授業を展開する必要があります。
なぜ、「自分を抑える」ことが「自由」なのでしょうか。自分勝手は、自由ではありません。そうだとすると、「自分勝手は、何かに縛られている」ということになります。
では、自分勝手は、何に縛られているのでしょうか。それは、自分の弱い心(欲望)です。だからこそ、自分を抑えることが必要となるのです。
自分をコントロールできることが、自由である。自由とは、本来何にも縛られないものです。だから、本当の自由とは、自分の弱さにも縛られないものだということができます。このことが、高学年の学習内容となります。
(古代ローマの人々は、自由を大事にしました。そのために鍛錬を重視しました。当時から、「自分に厳しくすることが、自由」だったということです。)
道徳科授業の途中で子供たち自身の生活経験を出させても、それぞれの生活背景が異なるので、議論になりづらいのが実情です。また、授業で考えさせたい道徳的価値は抽象的なので、そのまま道徳的価値について話し合わせても子供たちの思考はバラバラになってしまいます。
だから、道徳科授業には「教材」があるのです。教材を使って共通の土俵を作る必要があるということです。そうしなければ、授業についてこれない子が置いていかれてしまいます。
また、授業の途中に「例えば、〜。」という実生活での事案等を授業者が出してしまうと、それぞれの思考がバラバラに向かってしまいます。子供たちから自然と「例えば」と発言があればよいのですが、時に、「そういえば、先生はこの前に〜」と話し出す教師がいます。それは、二つ目の教材を提示していることになり、子供たちに混乱を生む要因になってしまいます。
1年生教材「二わのことり」と「かずやくんのなみだ」の授業づくりの相違点について考えます。
どちらの教材も、ひとりぼっち(「やまがら」「かずやくん」)が出てきます。中心人物の葛藤が描かれ、最終的にその子のもとへ向かいます(声をかけます)。教材の展開はよく似ていますが、内容項目は異なるので、授業づくりのポイントも異なります。
両教材の相違点をまとめると、以下の表のようになります。
「二わのことり」の授業では、「なぜ、他の小鳥に声をかけずに一人で出ていったのか」という疑問が浮かびますが、内容項目Bの視点を元に考えると、みそさざいとやまがらという、個と個の関係性に焦点を当てやすい展開になっているのだと分析できます。
逆に、「かずやくんのなみだ」では、中心人物のぼくは、ひとりぼっちであるかずやくんに声をかけるのではなく、仲間はずれをしている集団の一人であるさとしくんに「入れてあげよう」と声をかけています。これは、内容項目Cの特徴である「集団を意識」に関係しているのだと推測できます。
このように、内容項目を意識すると、展開の似た教材であっても、授業で大事にする要素が明確になるのです。
内容項目C「公正、公平、社会正義」の教材、「かずやくんのなみだ」について考えます。学習指導要領解説(P53)を読むと、低学年の「指導の要点」をもとに、例えば、以下のような補助発問が考えられます。
本教材では、大変悲しいことに、ぼくやさとしくんを含む学級のみんなが、かずやくんを鬼ごっこに誘っていません。走るのが遅いという偏った見方が原因で、かずやくんは仲間はずれにされています。ぼくは、自分の考え方のおかしさに気づき、かずやくんを鬼ごっこに誘います。しかし、その時点では学級のみんなはそのことに反対かもしれません。
内容項目Cでは、集団や社会との関わりについて考えることが求められます。そこで、本教材でも、ぼくとさとしくん以外の「みんな」を登場させてはいかがでしょうか。例えば、ぼくが気づかないふりをしている場面で、「みんなも同じようにしているのだから、正しいことだよね?」と尋ねるだけで、「おかしい」という意見が引き出せそうです。また、ここで「みんな」を押さえておくことで、その後のぼくやさとしくんの発言のよさを引き立たせることができます。
内容項目C「公正、公平、社会正義」の教材、「かずやくんのなみだ」について考えます。学習指導要領解説(P53)の低学年の指導の要点に、「指導に当たって」として以下の記載があります。
偏見や差別が背景にある言動については、毅然として是正することが必要である。 |
公正、公平な態度に根ざした具体的な言動を取り上げて、そのよさを考えさせるようにすることが大切である。 |
この2つの記述に対応する言動を本文から取り上げると、以下のようにまとめることができます。
本教材は、中心人物である「ぼく」の心情を考える授業が多くあります。それに加えてさとしくんの言動についても取り上げることで、日々の生活の中での不合理について考えさせることができます。
また、さとしくんは、すぐに「笑顔」でかずやくんを受け入れています。どのような、どれぐらいの笑顔だったのでしょう。その笑顔に、ぼくとさとしくんは何を感じたでしょう。さとしくんの「公正、公平な態度に根ざした具体的な言動」のよさについても考え(感じ)させることで、より深い学びになるのではないでしょうか。