「様々な人権課題を扱った直接的指導の工夫」
光村図書の5年生教科書に、「誰もが幸せになれる社会を」という、ハンセン病を扱った教材があります。直接的に人権課題を扱った教材といえます。
さて、栃木県教育委員会は、人権課題を扱った直接的指導の工夫として、以下の図のように説明をしています。
大事なポイントは、「強く生きていこうとする姿を共感的に捉えさせ、明るい展望がもてるようにする」というところになるでしょう。
「様々な人権課題を扱った直接的指導の工夫」
光村図書の5年生教科書に、「誰もが幸せになれる社会を」という、ハンセン病を扱った教材があります。直接的に人権課題を扱った教材といえます。
さて、栃木県教育委員会は、人権課題を扱った直接的指導の工夫として、以下の図のように説明をしています。
大事なポイントは、「強く生きていこうとする姿を共感的に捉えさせ、明るい展望がもてるようにする」というところになるでしょう。
20260710(金)
「答えが一つではない道徳的な課題」に向き合う道徳教育が求められています。このような道徳教育・道徳科授業を成立させるために、教師の側には、それを可能とする発問が必要となるでしょう。では、子供たちの側には、どのようなものが必要になるのでしょうか。
このことについて、光村図書のホームページに掲載されている「ミツムラ web magazine」(2025年4月4日 更新)で、 立命館大学大学院教授の荒木寿友氏は以下のように述べています。
(以下、一部抜粋)
これからの道徳は立ち止まって、じっくり考えることが大切になる。人権の知識などをベースにしながら、「それでいいの?」「それってそもそもどういうことなの?」と、問い続ける。答えがすぐには出ないモヤっとした状態に堪える力、ネガティブケイパビリティーや問いを考え続ける力がこれから求められると思います。 |
(以上)
「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」とは、19世紀のイギリスの詩人ジョン・キーツが提唱した概念で、すぐに答えが出ない事態や不確実な状況に直面した際、性急に解決や結論を急ぐことなく、その迷いや未知の状態に粘り強くとどまり続ける能力を指します。
道徳科の授業で、教師が「道筋が一つ」「わかりやすい」という授業を求めてしまうと、子供たちの「ネガティブ・ケイパビリティ」が育つことはないでしょう。少し難しい問いが出された途端、考えることを諦める子供たちになってしまうのではないでしょうか。
私たちは、道徳科授業を通して、この「ネガティブ・ケイパビリティ」を育てていく必要があります。学年の発達段階に応じ、「今日の道徳も難しかった。でもおもしろかった」という感想を抱くことができる授業を、教師として目指していきたいものです。
道徳科授業のスタイルを4つに分類してみると、下記のように分類できます。今回は「物語り(ナラティブ)スタイル」について考えてみます。
自分の言葉で過去を語ること、これを「物語る」と呼びます。心理学では「ナラティブする」という行為になります。心理学者の森岡正芳氏が著書『ナラティブと心理療法」の中で、「人は自分で自分を作り直せる。それは、物語るという行為を通して叶えられる」と述べているように、自分を物語ることで、過去と現在をつなぐことができるようになるのです。言い換えると、過去の「出来事」は変えられなくても、「出来事の意味」は変えられるということになります。
これは、小学校6年生「その思いを受け継いで」の授業をした際の児童の感想(ふり返り)です。
私は、まだ、もの心つかないうちにおじいちゃんが死んでしまいました。でも、物心ついていない時でも、いっしょに遊んでくれた日のことや、場所や、入院していベットで寝ている時の表情、おじいちゃんが死んだ時、夜中に病院に駆けつけたときのこと、病室の様子、お葬式の時、焼く時、納骨する時のことを今でもはっきりと覚えています。 (中略) 今の話し合いで、おじいちゃんのことを思い出して泣いてしまいました。今までおじいちゃんのことで泣いたことはあるけれど、こんなに深く考えて泣いたことはなかったので、今日、改めて命のつながりを感じることができました。 |
この児童は、過去の出来事を「物語る」ことで、自らがかぶせていた「心の蓋」を外すことができました。そして、今の自分が、過去の悲しい出来事に「命のつながりの温かさ」という価値をもたらすことができたのではないかと考えられます。この瞬間、この児童の心は未来へ向いたはずです。
この授業スタイルのイメージは、自然教室最終日のキャンプファイヤーです。みんなで友情の炎を眺めながら、涙を流す。これと同じように、みんなで同じ教材を囲み、ともに考え合い、過去を物語り、受け入れられ、涙を流す。このような授業が年に一回でも叶えられると、子供たちの道徳科授業に対する印象が大きく変わるのではないかと思っています。
〈参考〉『ナラティブと心理療法』森岡正芳 2008 金剛出版
道徳科授業のスタイルを4つに分類してみると、下記のように分類できます。今回は「ワークショップ(グループワーク)型」の授業スタイルについて考えます。
例えば、6年生教材「わたしのせいじゃない」(日本文教出版社)では、上記のような授業展開が提案できます。教師が一問一答で授業を進めるのではなく、小グループごとにラベリングをしたり、いじめの基準を考えさせたりすることで対話を促します。また、全てを子供にゆだねるのではなく、話題の提案や全体での共有を随時教師が行うことで、グループ(個)→全体→グループ(個)→全体・・・というように進んでいくことになります。実際の授業では、机と椅子を後ろに移動させ、床面で輪になって議論を行いました。
近年よく実践されている哲学対話なども、このスタイルに該当するのではないかと考えます。ここで大事にしたい思いは、「このような授業スタイルは道徳科ではない」という固定観念をなくすことではないでしょうか。授業の型があって、そこから子供たちの学びが生まれるのではなく、子供たちに学ばせたい(考えさせたい)ものがあったうえで、それに見合った授業スタイルが生まれるべきであると考えてはいかがでしょうか。
道徳科授業のスタイルを4つに分類してみると、下記のように分類できます。今回は「価値議論(思考)スタイル」について考えてみます。
第1回教育課程部会 道徳ワーキンググループ(令和7年11月25日開催)において、道徳科の授業を「考え、議論する道徳への転換」のフェーズから「考え議論する道徳」の実装のフェーズに移行するという内容が話し合われました。
また、『「答えが一つではない道徳的な課題」に向き合う道徳教育』というフレーズもあります。今後ますます、道徳科の授業において、子供たち同士の議論(対話)が求められます。
そのような状況において、本スタイルの授業は道徳的諸価値そのものについて議論するスタイルになります。教材の中に込められた諸価値の本質について、例えば、「◯◯の行動は親切と言えるのでしょうか」や「どちらの自由に賛成ですか」等の発問をすることで、発達段階に応じた道徳的諸価値について考え、議論させます。
ここで大事にしたいことは、道徳科の授業においては、先述した通り、「答えが一つではない道徳的な課題」に向き合うことが求められているということです。考えさせたいことの答えがすでに決まっている場合、それは道徳科の授業が求めている高み(深さ)には到達できないかもしれないということです。このことから、心情理解(共感)スタイルの授業と同様、やはり「深く考えたいと思える発問」が大事になるということであり、「何について考えさせたいのか」「教師自身はその問いを考えたいと思えるか」という視点も大事になるのではないでしょうか。
なお、「答えが一つではない」という定義については、改めて考えていきたいところです。
道徳科授業のスタイルを4つに分類してみると、下記のように分類できます。今回は、「心情理解(共感)スタイル」について考えてみます。
この「心情理解(共感)」スタイルの道徳科授業は、いわゆる従来型の授業と捉えることができます。中心人物の心情の変容を「場面(基本)発問」→「中心発問」→「補助発問」という流れで考えていきます。多くの研究授業の場でも、問い方や対話の在り方は様々ではありますが、この授業スタイルを多く見かけるのではないでしょうか。
しかし、このスタイルを道徳科授業の正解と認識してしまうと、授業の幅を狭めてしまうのではないかと危惧します。どうしても毎回の授業の流れが同じように感じられてしまうためにパターン化してしまい、9年間授業を受け続ける子供たちにとっては退屈なものになってしまう恐れがあると考えます。そうならないためには、やはり「深く考えたい」と思えるような発問が必要となるでしょう。
さて、本スタイルでは「中心人物になりきって考える」という学習活動を大事にしますが、この「なりきって考える」という行為そのものにも大きな意義があることを付け加えておきます。「なりきって考える」という行為を重ねることが「役割取得能力」の向上につながるといえるからです。「役割取得能力」とは、他者の立場に立ってその人の考えや感情を推測し、自分の対人行動に生かす力(社会的視点取得能力)のことです。心理学者のミードやセルマンらによって研究され、他者理解や共感性を深めるために非常に重要な能力とされています。この役割取得能力が向上すると、子供たちの他害の割合が現象するともいわれています。
道徳科の授業において「人物になりきって考える」という、一般的ともいえるこの学習活動こそが、実はとても重要な学びであるといえるでしょう。
道徳科授業のスタイルを4つに分類してみます。
(1)心情理解(共感)スタイル
従来の道徳科授業のスタイルと捉えられます。中心人物の心情を想像(共感)することを重視し、授業の流れは「場面発問→中心発問→補助発問」と進んでいくことが多いと言えます。授業スタイルとしては定番ですが、「教材の中で学ぶ」という印象があり、近年では「読み取り道徳」と批判的に捉えられてしまうこともあります。
なお、この授業スタイルでは「中心人物になりきって考える」という学習活動を大事にしますが、この「なりきって考える」という学習活動そのものにも大きな意義があることを付け加えておきます。
(2)価値議論(思考)型
道徳的諸価値そのものについて議論するスタイルになります。教材の中に込められた諸価値の本質について、例えば、「◯◯の行動は親切と言えるのでしょうか」や「どちらの自由に賛成ですか」等の発問をすることで、発達段階に応じた道徳的諸価値について考えさせます。
(3)ワークショップ(グループワーク)型
近年の教材では、中心人物が登場せず、様々な場面が掲載されているようなものがあります。日本文教出版社の教科書を例とすると、高学年教材の「これって不公平?」や「わたしのせいじゃない」などです。従来の道徳科授業のスタイルではなかなか深めづらい教材かもしれませんが、それ故に自由度があり、様々な工夫も考えられます。
(4)自己の物語り(ナラティブ)型
教材を通して自分自身の内面を見つめ、これまでの経験や秘めていた思いを語り合うスタイルです。こちらも日本文教出版社の高学年教材を例にすると、「かぜのでんわ」や「その思いを受けついで」など、「生命」を扱うような教材が向いていると言えます(もちろん、それ以外でも可能です)。自己を見つめることを大事とする道徳科だからこそ生み出すことができる授業だと言えそうです。
道徳科授業における人権教育について、今回は教材の視点から考えていきます。
畿央大学の島恒生氏は人権教育の重点指導教材について以下のように述べています。
(引用参考文献より一部抜粋) 道徳科の授業での人権教育の重点指導教材には、人権問題を直接取り上げた教材と人権問題は直接取り上げていない教材の両方が考えられる。共に重要なのは、人権教育として大切にしたい道徳的価値について考え、議論できることである。そのためには、人権教育と道徳教育の全体計画や年間指導計画に関連性が必須である。 |
さて、上記文中に「人権問題を直接取り上げた教材」とありますが、人権問題とはどのようなものを指すのでしょうか。法務省によると、主な人権課題として18の課題を強調事項としてあげています。この中には道徳科の教科書に取り上げられている課題もあります。
これらの課題の解消に向けた教育に取り組むために、「知識的側面」「価値的・態度的側面」「技能的側面」という3つの側面から資質・能力を養うこと、このことが人権教育の大きな目的であると言えます。
また、人権問題を直接取り上げている教材、直接取り上げていない教材、どちらの授業においても、「道徳的価値について考え、議論できること」が重要であると言えます。
例えば、人権問題を直接扱った教材で授業をする際、「差別や偏見はいけない」「思いやりの心が大切」など、答えが分かっている授業になりがちな傾向があります。だからこそ、道徳的価値について議論できるような発問や手だてが重要になってくるのです。
(引用参考文献)
『小学道徳 生きる力 道徳教育と人権教育』(2023,日本文教出版)
畿央大学の島恒生氏は、人権教育の在り方について以下のように述べています。
(引用参考文献より一部抜粋) 人権教育は、人権の意義やその重要性についての正しい知識を身につけ、日常生活の中で人権上問題のある出来事に際した際に直観的にそれはおかしいと思う感性や、日常生活において人権への配慮がその態度や行動に現れるような人権感覚を養うものである。 |
さて、上記について、「人権教育の指導方法等の在り方について〔第三次とりまとめ」では、人権教育で育てる資質や能力を、「知識的側面」「価値的・態度的側面」「技能的側面」という3つの側面で整理しています。そのうち、「価値的・態度的側面」と「技能的側面」を人権感覚としています。
この「価値的・態度的側面」こそ、道徳教育及び道徳科を中心にして養う資質・能力になります。このことについて、島恒生氏は以下のように述べています。
例えば、私たちは、自分と異なる考え方や存在に対して、排除や否定的な態度を取ってしまうことがある。それに対して、相手は自分にないよさをもっているとして、相手のことを尊重し、互いに理解しようとする考え方、つまり「違いは豊かさ」という考え方は、人権教育の中で重要な価値観となる。こういった価値観を自分との関わりで広げ、深め、豊かにしていくのが道徳教育であり道徳科である。 |
このように、道徳教育と人権教育は密接につながっており、道徳科の授業においても、人権教育の観点を意識する必要があるといえるのです。
(引用参考文献)
『小学道徳 生きる力 道徳教育と人権教育』(2023,日本文教出版)
小学校3年生教材「ぼくのボールだ」(日本文教出版)の授業づくりについて考えます。内容項目は「公正、公平、社会正義」です。
実際の授業で、「(たかしくんが)嫌な気持ちになるのなら、ドッジボールに参加しなかったらいいのに」という発言が出ました。この発言について、授業者としてとても興味を抱きました。もしかすると、発言をした児童自身が日頃からそのように考えて遊びに参加しないことがあるのかもしれません。自分ごととして考えているからこその発言なのではないか、そのように感じました。
授業では、その発言に対して授業者である私がとても興味を抱いたことを伝え、発言した児童に感謝をした上で、「では、運動が苦手な子(強いボールを投げられない子)は、みんなのために我慢しないといけないのかな」と問い返しました。すると、「たかしくんにも楽しみたい気持ちがある」「ドッジボールを嫌いになってしまう」「いじめにつながると思う」などの意見が出てきました。
内容項目は「公正、公平、社会正義」です。学習指導要領解説にも「自分の好みや利害によって、ともすると公平さを欠く言動をとる姿も見受けられる」とあります。また、「偏見や差別が背景にある言動については、毅然として是正することが必要である」ともあります。ぼくにとっての利害(ドッジボールに勝ちたい)によって、たかしくんは偏見が背景にある言動(ボールを強く投げられないと決め付けられ、取り上げられる)を受けています。
実際の生活の中では、無理にドッジボールに参加しなくてもいいでしょう。しかし、それは「ドッジボールに参加してみんなと楽しむことができる」という条件をクリアした上での「選択の自由」になるべきなのです。
このことに授業を通して気付かせることができるかどうかが、本教材の大きなポイントになるのではないかと考えます。
なお、今回取り上げた児童の発言「嫌な気持ちになるのなら、参加しなかったらいいのに」は、事前に教師が想定しておいて補助発問として用いることもできます。このように、事前に児童の発言や思考を想定しておくことも、「考え議論する授業の徹底」を目指すには必要なのです。
小学校3年生教材「ぼくのボールだ」(日本文教出版)の授業づくりについて考えます。内容項目は「公正、公平、社会正義」です。
本教材はドッジボールの一場面を扱っています。運動が苦手な(強いボールを投げられない)たかしくんががんばって拾ったボールを、ぼくに横取りされてしまい、チームが勝つために強いボールを投げられるまさとくんにボールを渡されるという内容です。
ボールを横取りされたたかしくんは「やめてよ。それは、ぼくのボールだ」「ボールは取った人のものだよ」と大声で訴えます。この発言を、学級の子供たちはどのように受け止めるでしょうか。
実際の授業で範読後に「お話を聞いて、おかしいと思ったところはありますか」と尋ねたところ、「たかしくんはわがままだ」という意見がありました。もしかすると、日頃から「わがままを言ってはいけません」「自分勝手をしてはいけません」と学校や家庭でよく言われている子ほど、このような捉え方をしやすいのかもしれません(推測ですが)。
さて、この「わがままだ」という意見をどのように扱うのか、道徳科授業のおもしろさであり、難しさでもあります。このような意見を出させないように教師主導で授業を進めていくこともできるでしょう。ただ、これから求められていく道徳科授業は、このような意見を大事にして、考えを深めさせる授業なのではないでしょうか。
今回のように、模読後にこのような意見が出てきたのならば、「では、たかしくんがわがままなのかどうか、みんなで考えていこうね」と、子供の発言から授業のめあてを作ることができそうです。学習指導要領解説にも「日常の指導において、公正、公平な態度に根差した具体的な言動を取り上げて、そのよさを考えさせるようにすることが大切である」とあります。授業を通してぼくの言動やたかしくんの発言について考えさせることで、「たかしくんの発言はわがままではなく、とても大事な発言なのだな」と子供たちが理解できたなら、その授業は大きな学びにつながるのではないでしょうか。
教育課程企画特別部会が論点整理(令和7年9月25日)の中で、「第1章 次期学習指導要領に向けた基本的な考え方」として、道徳科の授業について「考え、議論する道徳の徹底」と謳われています。
これまでの指導要領では「転換」という言葉が使われていました。「転換」から「徹底」へ。この言葉の変化をどのように考えるべきなのでしょうか。道徳科の授業では、道徳的価値について考えますが、現状の授業では「何を考えさせるのか」ということを教師が明確にできていないのではないでしょうか。考えるべき内容が曖昧なままでは、子供たちの学びは深まりません。教科書に書かれていることを順に問うだけでは、「考え議論する」ことを徹底できないでしょう。
また、どのように考えるのかといえば、自分ごととして考えさせる。このための手だても徹底して教師が考えられていないのではないでしょうか。「どんな気持ちだったでしょう」と毎度問うだけでは、決して自分ごととして考えません。対比的に考えさせたり、自らの立場を表明させたりするなど、子供たちが深く考えられる(考えたくなる)ような様々な手立ても重要になってきます。
これらのことを徹底して教師が考える。これからの授業づくりにおいて、この点をさらに大事にしていきたいところです。
内容項目「公正、公平、社会正義」の指導の要点(高学年)に次のような記載があります。
(以下、学習指導要領(平成29年告示)解説より一部抜粋)
一方、いじめなどの場面に出会ったときにともすると傍観的な立場に立ち、問題から目を背けることも少なくない。こうした問題は、自分自身の問題でもあるという意識をもたせることが大切である。
(以上)
このように、「傍観的な立場」という表現がはっきりと記されています。教材「わたしのせいじゃない」に登場する14名の中には、その傍観的な立場で発言をしている子が出てきます。本教材を「傍観的な立場」に焦点を当てて授業を行うという工夫もできるでしょう。