2022/03/11

一人称と沈黙


 

 教師の発言そのものを対話的にする手段として、ヤーコ・セイラックは「応を呼び寄せるように一人称で話す」ことを提案しています。例えば、「私が思うに、あなたはこう考えているのかな・・」「私の経験だとそうなるけど、まだよくはわからないけどね・・・」という話し方になります。

 また、対話場面では、「穏やかに進める」ということも提案しています。これは、「沈黙の瞬間は対話にふさわしい」という捉え方によるものです。対話者のあいだに生まれる対話のリズムには休止や沈黙の瞬間が必要であり、それによって、人は考えていることを口に出すばかりではなく、内的対話のための間を持つことができるからです。みずからが自分自身や他者に向けて言った内容に耳を傾けることができるのです。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

2022/03/10

終末のやりとり



 『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』という書籍が明示図書から復刊されました。その書籍のなかで、井上治郎は、コールバーグの忠実な弟子とされているロナルド・ガルプレイスとトマス・ジョーンズが「コールバーグ理論を授業に生かすための教師用手引き書」として執筆した『道徳的理由づけ』(1976)をもとに、その主張を論じています。そのなかの「終末」についての記述を紹介します。

(以下、抜粋)

 指導過程の第四段階の終わり、すなわち終末段階においても、主人公のとるべき行為に関して、「意見の一致をえることや、一つの結論に到達すること」は、道徳の授業の趣旨ではない。子どもたちが、お互いの再度の「どうすべきか」と、それぞれの「理由づけ」を確認しあえば、あとは、いわば流れ解散である。そこで、教師が、なんらかの積極的な役割を果たすとすれば、たとえば、「うちへ帰って両親とも話してごらん」とか、「なぜ、きみの解決がいちばんよいんだろうね」とかともちかけて、教室内のやりとりが、教室外にも延長されるようにしむけることだけである。

(以上)

 道徳科授業の目的は対話そのものであると、これまでも説明してきました。この書籍は1981年発行ですので、すでに40年以上前から言われ続けていることだといえます。

 教師は「正解」を教えようとしてしまいがちですが、その「正解」は誰にとっても本当に「正解」なのか、まず教師が自身自身に問う必要があるでしょう。そのうえで、教師が「正解」だと判断したことについて、その是非を子供たちに協議させる。授業づくりでは、そのような意識が必要となるのです。


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/03/09

道徳的思考力


 『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』という書籍が明示図書から復刊されました。その書籍のなかで、井上治郎は以下のように主張しています。

(以下、抜粋)

 私はイギリスのジョン・ウィルソンの『道徳的思考』(1970)に見られる主張に共感する。なぜなら、この著書においてウィルソンは、道徳の分野における「人前のディスカッション」の重要性を特に強調し、これが同時に、道徳の授業の「目的」となるべきことを主張しているからである。

 道徳的問題についての「人前でのディスカッション」、すなわち、道徳の授業の場合であれば学級集団が単位の「話し合い」は、ひとりひとりの子どもに、ア「なかまとの対話」、イ「資料の主人公との対話」、さらにウ「自分との自己内対話」を促さないではおかない。資料における「同質性」が誘いだす弁護的な意見と批判的な意見の対立は、特にウの「自分との自己内対話」を確実なものとすることを通じて、子どもたちに、「スキル」としての「一歩退いて自己の言動を吟味する道徳的思考力」を定着させることになるだろう。

 私が道徳の授業に期待する、子どもたちに人それぞれの道徳をつくらせる機能は、ウィルソンの右の「道徳的思考」を育てる機能と言って言えなくもない。なぜなら、つくられるべき道徳は、より正確には、つくられつつある道徳であり、何よりも柔軟性を特質とすべきだと考えるからである。その意味では、「話し合い」は、私にとっても道徳の授業の目的そのものである。

(以上)

 井上治郎は、「話し合い」こそが道徳授業の目的そのものであると主張しています。これは、特別の教科 道徳においてもいえることです。道徳科授業は、「対話」を通してこそねらいを達成できるものだからです。


《引用参考文献》

現代道徳教育研究会編『道徳教育の授業理論 十大主張とその展開』(1981,明示図書)

2022/03/08

手品師の授業づくり(2)


 手品師の授業づくりについて先述(20220304)しました。それをもとに模擬授業をする機会がありましたので、事後検討会で出た意見を紹介します。


(1)内容項目「正直、誠実」の捉え方について

 低学年(モヤモヤ)→中学年(綱引きの様な、自分への正直さ)→高学年(生き方に誠 実)→中学校(誇りからの誠実)とつながっていく。 今回の「後ろめたさに着目させるという授業展開は、中学校の目標に近い実践ではないだろうか?


(2)「手品師にとっての誠実さ」

 手品師は、「自分が手品師であること」を守りたかったのだろう。それに人生をかけると決めた自分がいるのである。


(3)「後ろめたさ」について

 今回の授業提案では、「後ろめたさ」に着目していた。多くの授業の場合、「一番大切にしていたことは何か?」と聞く。しかし、あえて「失いたくないもの」を問うことで、新たに見えてくるものがある。しかし、6年生の実態を考えると、思考の難しさを感じる。

 しかしながら、「失いたくないもの」と「後ろめたさ」はイコールなのか。「後ろめたさ」については、補助発問として出してもいいのではないか。中心発問は、教科書に書かれている「どんな思いから、手品師は男の子との約束を選んだのだろう」として、補助発問として「後ろめたさ」について尋ねてはどうだろうか。


(4)補助発問について

「もし、少年との約束が鬼ごっこなら、手品師は少年を選ぶのかな?」(条件を問う)

「あなたにとっての手品は何ですか。それを見つけられたらいいですね」(自己を問う)


 道徳科の授業づくりには決して正解はありません。今、目の前の子供たちに何を考えさせたいか(何を教えたいかとは異なります)。まさに、上記の「あなたにとっての手品とは?」というようなことを考えられる時間を提供することが道徳科授業の醍醐味であり、そのための対話を生む「問い」や「展開」を考えることこそ、授業づくりだといえるでしょう。決して、手法や正解を誰かに教えてもらうことが研究ではないと、私自身は考えています。

2022/03/04

手品師の授業づくり


 手品師の行動に対して賛否両論の意見がある。手品師の行動は自己犠牲の精神であり、現代の道徳教育には適さないという指摘もある。果たして本当にそうなのか。手品師の夢は大きな舞台で華やかに手品をすることだったが、一人の少年と出会い、本当の夢は手品を通して人を喜ばせることであることに気づいた。また、偶然出会った少年と過去の自分を重ね合わせ、自分が生きていくうえで大事にしたいことも自覚できた。そう考えると「手品師は少年との約束を守った」や「自分の夢を捨てた」という児童の捉え方は、手品師の誠実さに対しての共感・理解が浅いと言えるかもしれない。本教材は、手品師の誠実さについて多面的に考えさせることで、その価値判断のすがすがしさに共感させるとともに、自分の生き方を考えることができる教材である。

 さて、本教材では、まず2つの展開案が考えられる。 

(1)「友人との電話」の場面で問う。すると、二項対立の葛藤・議論が生まれる。

(2)「少年の前で手品」の場面で問う。すると、手品師の決断への批判・分析が生まれる。

 このどちらにおいても、手品師が手に入れたいもの(大劇場でのステージ)は善か悪かが議論の焦点になりやすい。しかし、手品師の誠実さを考えさせるためには、自らの内面に生まれる「後ろめたさ」に気づかせる必要がある。

 人間は、手に入れたいものは簡単に見ることができるが、失うものに気づくことは困難なものである。手品師は、友人からの電話により、すぐに「手に入れられるもの」を思い浮かべた。しかし、少年の顔を思い浮かべることで、自分が失うかもしれないものに気づくこともできた。それは決して「少年がかわいそう」「約束を守る」というものではなく、生きていくうえで失いたくないものを自覚したのである。自らの生き方の価値基準を見つけたということである。

 そこで、このような中心発問はどうだろう。

(3)「手品師が失いたくなかったものはなにか」

 手品師の思いを自分ごととして考えさせるとともに、児童自身の生き方についても考えを広げさせていく。また、そのためには、手品師にとっての少年の存在を考えさせる必要がある。手品師は少年の中に何を見たのか。少年を喜ばせることは手品師にとってどのような意味があるのか。それらも考えさせることで、価値判断の結果生まれる「後ろめたさ」に気づかせる手立てとしたい。

2022/03/03

手品師にとっての「誠実さ」


 教材「手品師」の内容項目は「正直、誠実」です。では、手品師にとっての誠実さとは、どのようなものなのでしょう。


【「誠実さ」について】

 人は、他者との関係性の中で生きています。それゆえ、「誠実さ」も他者との関係性の中で生まれるものになります。「誠実さ」とは「自分自身に対する真面目さ」となりますが、それは決して自己犠牲を強いるものではなく、「心のすがすがしい明るさ」を持ち合わせるものにならないといけません。誠実ではない行為を選択することで、たとえその瞬間は喜びを得られたとしても、自らの中に後ろめたさが生まれ、誇りや自信を失うことにつながってしまうからです。それゆえ、己が生きるうえで大事に持ち続けたいものを自覚し、それを価値判断の基準として強く意識しながら生きること、それを「誠実に生きる」といえるのではないでしょうか。

2022/03/02

聞いてもらえることが対話


 「聞いてもらえることがすでに対話である」と、ヤーコ・セイラック(2105)は論じています。ここに、私たちが教室でおこなっている「聞く指導」の全てが込められていると感じました。

 さて、セイラックは以下のようにも述べています。

(以下、抜粋)

そこにある種の「駆け引き」を感じたとしたら、つまり彼のことを親身に考えているかのように見せかけつつ、彼を説得することを密かに狙っている様子を感じとったとしたら、彼はあなたの意図を声のトーン・表情・身振りなどからただちに見抜き、ふたたび心を閉ざしてしまうでしょう。

(以上)

 たとえば、生徒指導の場面において、子供たちの話を教師はよく聞こうとします。しかし、その行為が本当に対話としての「聞く」になっているでしょうか。聞いているふりをしているだけで、指導のタイミングを常に狙っていないでしょうか。

 道徳科授業においても、子供たちからできる限り多様な意見を聞こうとします。しかし、実は教師が事前に正解をもっており、その正解に近づく意見ばかりを受け入れたりしていないでしょうか。

 多様な意見を聞くということは、目の前の子供たち一人ひとりを尊重することにつながります。そのような教室だからこそ、子供たちは安心して意見を言うことができるようになります。自分の意見を聞いてもらえるという実感をもつことが、他者の意見を聞くという対話性を養うことにつながります。

 まず、教師が子供たちの考えを「聞く」ということを大事にしていきたいものです。


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)

2022/03/01

対話と合意


 対話を通して一つの解を求めるべきなのか。この問いに対して、ヤーコ・セイラック(2015)は、『対話には必ずしも全員の合意は必要ありませんし、合意が得られないことが対話の妨げになるわけでもありません。また対話は決まった結論を目指すわけではありません。他者を無条件に受け入れるということは、他者の考え方をそのまま肯定することが前提ではないし、複数の考え方を融合・収束したり、妥協点を探ることでもありません。』と述べています。

  私たちは、道徳科授業のなかで特定の価値理解を教えようとしていないでしょうか。子供たちに対話をしているふりをさせるけれど、教師が唯一の解をもっていないでしょうか

 「納得解」や「共通解」という用語が広がっていますが、どうも「解」を定めないといけないという風潮も広がっているように危惧しています。

 道徳科授業の目的は、他者という鏡をもとに自己をふり返り、生き方を考えることです。そうであれば、対話をするということは「他者という鏡を見る」ということになり、決してそこに写る自分を全員で一つに揃える必要はないのです。自分と他者との違いに気づき、その違いから改めて自分を考えることが大切になるのです。

 また、ミハイル・バフチンは(1995)は、「生きていくうえでは『出来事の見方が絶対的に対立してしまう』ことを認めざるをえない」とも指摘します。そのうえで、「聞いてもらうこと」がすでに対話的な関係そのものであるとしています。「対話性」は方法論ではなく、他者から無心に聞いてもらい、応答してもらうことで力づけられた経験から生まれる、「なんとか他者を理解しようとする態度」だということです。

 道徳科の授業に議論や説得は相応しくありません。対話性のある学級のなかでこそ、子供たちは安心して自分の生き方を考えられるのです。 


《引用参考文献》

ヤーコ・セイラック トム・アーンキル著 斎藤環 監訳『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』(2015, 医学書院)