4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業づくりについて考えます。
本教材では、少年(アドルフ)たちがヒキガエルに小石を投げつけたり荷車にひかれるのを見守ったりするなど、ヒキガエルの命を大切にしない言動が描かれています。
一般的な流れでは、教材前半で小石を投げつけている少年(アドルフ)たちの気持ちを考えさせ、「楽しい」「もっとぶつけたい」などの、発言を引き出すことが多いように思います。
そこで、この授業展開に一石を投じるために一つの発問を提案します。
という発問です。
この発問は、自分事として捉える手立てにもなるのではないかと考えます。「楽しい」という同じ言葉であっても、その奥にある子供たちの思いは様々です。個別最適な学びにつなげるためにも、一人一人の言葉の奥にあるものをみつめてあげたいものです。
学級の中には、アドルフ達の言動を認めたくない子もいます。いじめを受けて悲しい経験のある子などは、アドルフの言動を決して許せず、自らの口で「楽しい」「おもしろい」など発言したくないのではないでしょうか。「いじめをしたら楽しい」というような発想を学級全体で共有したくないのではないでしょうか。さらに、このままだと、授業後半での学びは、「意地悪(本教材では小さな命を奪おうとすること)をしたら楽しいけれど、そのようなことはしてはいけない」という学びになる恐れがあります。
しかし、多くの道徳科授業では、このような非道徳的な言動を肯定するような発言を授業前半で求められます。その場面では「いじめをして楽しい」「おもしろい」という発言がまるで正解のように扱われます。果たして、そのような道徳科授業でよいのでしょうか。
そこで、上記のような発問を補助発問として尋ねるのです。「1%は『こんなことはしてはいけない』」というような意見が出れば、学級の中にいる、いわゆる弱い立場の子たちの心を救うことができるのではないでしょうか。
上記のような発問をして、もし「その通り!100%だ!」という考えが学級全員だとしたら、授業後半で「100%の意地悪の気持ちを変えたものは何?」というように尋ねることができます。
「少しは『いけない』という気持ちがあった」という考えが出たとすれば、後半で「この『いけない』という気持ちを大きくさせたものは何?」「『いけない』という気持ちが大きくなったアドルフたちは、帰り道にどんな会話をしたのだろう?」などと尋ねることができます。
このように、子供たちからどちらの立場の意見が出たとしても、それを拾って後半につなげることができますし、学級にいる多様な子どもの思いを救ってあげることができると考えます。
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