元立教大学助教授(当時)の松平信久は、以下のように述べています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
まず第一に、観念としてある自己像、かくあるべしとして想起される自己像との対比において自分の言動を「反省」してみても、それは観念の世界での空転に終わりやすいということである。抽象的な徳目との対比において、「〜の行動はできなかった」「〜のような悪い考え方をしてしまった」等と考えたり、告白をしたとしても、具体的に問題を打開してゆく契機とはなり難い。
反省を実質的内容を持ったものとするためには、個々具体的な事実に即して、自分のどのような行為が、相手のどのような反応を引き起こしたのか、その反応の背後で相手はどのように考えたのか、等の分析と推察が必要なのである。つまり反省のためにも、その思考の対象となる他者の存在が必要なのである。
このように考えてみると、内面性の深化とは、自分だけの観想の森に入り込んで、その森をあてどなく深部にまで探索の歩を進めるということではない。事態のおかれた状況とそれを巡る人々と、行為の当事者である自分との間の不断の交流によって進められる営みなのである。
(以上)
松平が述べていることから、内面性の深化のためには、具体的な事実に即して自分の行為が相手のどのような反応を引き起こしたのか、相手がどのように考えたのか等を推察することが重要だということが分かります。
道徳科の授業においても、例えば、登場人物の言動が他者のどのような反応を引き起こしているのか、その背後でどのような心情が芽生えているのか、そのようなことをじっくりと考えさせることが求められるのでしょう。
《参考引用文献》
上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)
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