「内容項目」をなぜ「目標」と呼ばないのか。そのことについて、宮地忠雄は以下のように説明しています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
授業における教師の発問は、いうまでもなくその授業のねらいを達成するために発せられる。これは教科の授業においても同じである。しかし、教科の授業では、概念を形成するとか、思考力を高めるとか、また、読解力や観察力を伸ばす、といったように、客観の世界に対する知識・認識力あるいは処理力を高めることを、その主たるねらいとする。
道徳の授業でも、道徳的な価値について、その見方、考え方を伸ばすということは、重要なことである。しかし、それは授業のねらいとなって、その主座を占めることはない。道徳の授業では、つねに、「道徳性の内面的な自覚」こそが、ねらわれ、追求される。道徳的価値と称せられるもろもろのものは、「道徳性の内面的な自覚」に迫る、その迫り方、あるいは側面を示すものにほかならない。36項目が、また、21項目が、「目標」ではなく「内容」である意味もここにある。そのような、もろもろの内容(価値)を手がかりにして「道徳性の内面的な自覚」をねらうことが道徳の時間の指導で問われているのである。
(以上)
私たちは学習指導要領解説に記載されている内容項目を読み、そこから本時のねらいや授業展開、発問を考えます。しかし、内容項目に書かれていることを理解させることが道徳科の授業で求められていることではなく、それらを手がかりにして内面的な自覚をねらうことが求められている。だからこそ、「目標」ではなく「内容」という言葉が使われているのだと分かります。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
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