道徳科の授業と教科の授業の違いについて、宮地忠雄は「発問」という視点をもとに以下のように述べています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
道徳の授業では、常に、子どもひとりひとりにその内面的な世界を探求させそこに「道徳性を自己の自覚として主体的にとらえさせる」ことがねらわれ、教科の授業とはそのアプローチが非常にちがってくる。
一見、形態的には同じようではある。すなわち、目標があり内容があり、しかもそれを計画的に指導するわけであるから「授業」という表現すら、その45分の指導に対して用いられる。しかし、教科の授業でねらわれるものは客観の世界であるのに対し、道徳の授業では自己の内面的な世界である。それはあくまでも「自己の自覚として主体的」に追求されるものである。であればこそすでに第一章第一節「内面化と発問」でもふれたように、道徳の授業の成否を決定するものは、内面的な世界へと問いかけが成立するか否かである。教師とひとりひとりの子ども、そしてその集団内において、心の対話が直接、間接に(資料を媒介として)成立するか否かが道徳における授業という形態をとる指導が可能となるかどうかを決定する。
この子ども自身の内面的な世界へと探求のキーポイントをなすものが、教師の発問であることは、すでにたびたび述べた。
いいかえれば、道徳の授業を、道徳の授業たらしめているもの、教科の授業との根本的なちがいをもたらすもの、それは、教師の発問そのものに含まれる。道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのようにくふうするか、その発問を具体的にどうおさえるかは、まさしく根本的命題である。
(以上)
宮地の言う「道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのように工夫するか」という点こそ、道徳科授業を作っていく過程で最も大事にしたいところかもしれません。なお、このことは安易に「あなたならどうする?」と問えばよいというわけではなく、授業全体を通しての工夫(手立て)が求められているといえるでしょう。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
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