2024/11/07

4年生「ヒキガエルとロバ」~いじわるしたい気持ちだけ?~


 4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業づくりについて考えます。

 本教材では、少年(アドルフ)たちがヒキガエルに小石を投げつけたり荷車にひかれるのを見守ったりするなど、ヒキガエルの命を大切にしない言動が描かれています。

 一般的な流れでは、教材前半で小石を投げつけている少年(アドルフ)たちの気持ちを考えさせ、「楽しい」「もっとぶつけたい」などの、発言を引き出すことが多いように思います。

 そこで、この授業展開に一石を投じるために一つの発問を提案します。

アドルフ達の心の中は、「ヒキガエルに意地悪しよう」という気持ちが100%だったのかな。

という発問です。

 この発問は、自分事として捉える手立てにもなるのではないかと考えます。「楽しい」という同じ言葉であっても、その奥にある子供たちの思いは様々です。個別最適な学びにつなげるためにも、一人一人の言葉の奥にあるものをみつめてあげたいものです。

 学級の中には、アドルフ達の言動を認めたくない子もいます。いじめを受けて悲しい経験のある子などは、アドルフの言動を決して許せず、自らの口で「楽しい」「おもしろい」など発言したくないのではないでしょうか。「いじめをしたら楽しい」というような発想を学級全体で共有したくないのではないでしょうか。さらに、このままだと、授業後半での学びは、「意地悪(本教材では小さな命を奪おうとすること)をしたら楽しいけれど、そのようなことはしてはいけない」という学びになる恐れがあります

 しかし、多くの道徳科授業では、このような非道徳的な言動を肯定するような発言を授業前半で求められます。その場面では「いじめをして楽しい」「おもしろい」という発言がまるで正解のように扱われます。果たして、そのような道徳科授業でよいのでしょうか。

 そこで、上記のような発問を補助発問として尋ねるのです。「1%は『こんなことはしてはいけない』」というような意見が出れば、学級の中にいる、いわゆる弱い立場の子たちの心を救うことができるのではないでしょうか。

 上記のような発問をして、もし「その通り!100%だ!」という考えが学級全員だとしたら、授業後半で「100%の意地悪の気持ちを変えたものは何?」というように尋ねることができます。

 「少しは『いけない』という気持ちがあった」という考えが出たとすれば、後半で「この『いけない』という気持ちを大きくさせたものは何?」「『いけない』という気持ちが大きくなったアドルフたちは、帰り道にどんな会話をしたのだろう?」などと尋ねることができます。

 このように、子供たちからどちらの立場の意見が出たとしても、それを拾って後半につなげることができますし、学級にいる多様な子どもの思いを救ってあげることができると考えます。

2024/11/03

発問を考える~道徳科の授業と教科の授業との違い~


 道徳科の授業と教科の授業の違いについて、宮地忠雄は「発問」という視点をもとに以下のように述べています。

(以下、参考引用文献から一部抜粋)

 道徳の授業では、常に、子どもひとりひとりにその内面的な世界を探求させそこに「道徳性を自己の自覚として主体的にとらえさせる」ことがねらわれ、教科の授業とはそのアプローチが非常にちがってくる。

 一見、形態的には同じようではある。すなわち、目標があり内容があり、しかもそれを計画的に指導するわけであるから「授業」という表現すら、その45分の指導に対して用いられる。しかし、教科の授業でねらわれるものは客観の世界であるのに対し、道徳の授業では自己の内面的な世界である。それはあくまでも「自己の自覚として主体的」に追求されるものである。であればこそすでに第一章第一節「内面化と発問」でもふれたように、道徳の授業の成否を決定するものは、内面的な世界へと問いかけが成立するか否かである。教師とひとりひとりの子ども、そしてその集団内において、心の対話が直接、間接に(資料を媒介として)成立するか否かが道徳における授業という形態をとる指導が可能となるかどうかを決定する。

 この子ども自身の内面的な世界へと探求のキーポイントをなすものが、教師の発問であることは、すでにたびたび述べた。

 いいかえれば、道徳の授業を、道徳の授業たらしめているもの、教科の授業との根本的なちがいをもたらすもの、それは、教師の発問そのものに含まれる。道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのようにくふうするか、その発問を具体的にどうおさえるかは、まさしく根本的命題である。

(以上)

 宮地の言う「道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのように工夫するか」という点こそ、道徳科授業を作っていく過程で最も大事にしたいところかもしれません。なお、このことは安易に「あなたならどうする?」と問えばよいというわけではなく、授業全体を通しての工夫(手立て)が求められているといえるでしょう。


《参考引用文献》

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/11/02

「目標」ではなく「内容」である意味


 「内容項目」をなぜ「目標」と呼ばないのか。そのことについて、宮地忠雄は以下のように説明しています。

(以下、参考引用文献から一部抜粋)

 授業における教師の発問は、いうまでもなくその授業のねらいを達成するために発せられる。これは教科の授業においても同じである。しかし、教科の授業では、概念を形成するとか、思考力を高めるとか、また、読解力や観察力を伸ばす、といったように、客観の世界に対する知識・認識力あるいは処理力を高めることを、その主たるねらいとする。 

 道徳の授業でも、道徳的な価値について、その見方、考え方を伸ばすということは、重要なことである。しかし、それは授業のねらいとなって、その主座を占めることはない。道徳の授業では、つねに、「道徳性の内面的な自覚」こそが、ねらわれ、追求される徳的価値と称せられるもろもろのものは、「道徳性の内面的な自覚」に迫る、その迫り方、あるいは側面を示すものにほかならない。36項目が、また、21項目が、「目標」ではなく「内容」である意味もここにある。そのような、もろもろの内容(価値)を手がかりにして「道徳性の内面的な自覚」をねらうことが道徳の時間の指導で問われているのである。

(以上)

 私たちは学習指導要領解説に記載されている内容項目を読み、そこから本時のねらいや授業展開、発問を考えます。しかし、内容項目に書かれていることを理解させることが道徳科の授業で求められていることではなく、それらを手がかりにして内面的な自覚をねらうことが求められている。だからこそ、「目標」ではなく「内容」という言葉が使われているのだと分かります。


《参考引用文献》

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/11/01

「問い」を引き出し、広げる


 「問い」について、樋口(2020)は「子どもたちの中から生じる疑問、問題意識、探究心が『問い』になる」と述べています。道徳科の授業においても、子供たちの中にある「問い」を引き出すことが、主体的に学ぼうとする力を育む糸口になると考えられます。

 さて、「問い」を引き出すためには教師の手立ても欠かせません。田沼(2020)は「個別の『問い』を意図的に披瀝し合う場を設け、語らいを通してすり合わせ、調和的に調整し合い、学習集団全体の合意形成プロセスを経ての共通追求道徳課題設定を行う」ことを「グループモデレーション」と述べています。この「グループモデレーション」を意識し、まずは、「個別の『問い』を意図的に披瀝し合う場を設ける」ところから授業づくりを始めてはどうでしょうか。


《参考引用文献》

樋口万太郎『子どもの問いからはじまる授業!』(2020、学陽書房)

田沼茂紀『問いで紡ぐ小学校道徳科授業づくり〜学びのストーリーで「自分ごと」の道徳学びを生み出す〜』(2020、東洋館出版社)