2024/12/16

発問の分類「価値の実践化(実践への意欲化)をはかる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「価値の実践化(実践への意欲化)をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 この累計にまとめられる発問も、この授業では、直接とらえることができないようである。しかし、考えようによれば、道徳問題をにつめ、価値へ志向する心理的な葛藤をより深めることを意図して発せられた発問は、次の段階の価値の発見や把握をはかる発問とあいまって、価値の実践化をはかる発問となっているといえないことはない。

 なんとなれば、児童が、心から「できればこうすることがよいことだ」とか「望ましい行為のしかたはこれだ」などと納得すれば、当然それへの実践化が期待できるからである。

 けれども、ここで取り上げようとしていることは、もっと直接的に実践化あるいは行為化を意図して発せられる発問の類型である。

 たとえば、

「どういうようにすれば、それができるででしょう」

「できれば、そうすることが一番よいことだとわかっているけれど、実際はなかなかできないよね。それで、そこまでできなくても、自分ではどの程度のことまでできるかな。自分では、これくらいのことはできる、(こういうふうにするんだったら、自分でもできる)そういったことを考えてみよう」

(以上)


(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/12/15

発問の分類「価値の発見・把握をはかる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「価値の発見・把握をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 これは内面化をめざす発問といえないこともないが、道徳の時間は、その時間が全体として、常に内面化をめざしているものであるから、このステップだけ内面化というのはいろいろ問題があろう。また、価値の発見・把握というよりも、それ自体、常にこの時間のそれぞれのステップのねらいでもあるから、前者と同じように必ずしも適当な表現とはいえないだろう。しかし、このような表現の生まれてくるゆえんは、この段階まで授業が進められたとき、児童は、それぞれ自分なりに、望ましい行動なり、あるいは価値のイメージなりを持つことができるようになるだろう、ということを予想し、それをしっかり自分のものとさせることをねらう発問、そういった発問の性格なり、ねらいなりをずばりと表現するためにあえてこのような表現がとられているということである。

 であるから、この発問を通して児童に期待される反応は、

「はっ」と気づき、新しい発見にみちびかれる。

「なるほど、そうだったのか」と、しみじみ感じたり、考えたりする。

「うん・・・」と自己の内面的なものに目覚める。

などといったものであろう。

(以上)



(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)


2024/12/14

発問の分類「道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 道徳問題を意識化する段階では、まだ、それを、何のためにどうするのか。何をみんなで考えるのか。その追求の方向や焦点がはっきりしていない。

 本時のねらいにあわせ、問題のポイントをはっきりさせ、共同思考の体制を確立することが重要である。

 児童たちから出てきた「ことば」を吟味して、そこのどこが問題か、その考え方のどこが問題かをはっきりさせる。あるいは、常識的な反応や、一般的な思考、また、これまで持っていた概念のどこに甘さがあるのか、そこをついて、ときにはくだいて、これから掘り下げていこうとする問題点をはっきりさせる。これが効果的にできるかどうかが、本時の授業の成否を左右するといっても過言ではなかろう。 

(中略)児童たちは30分を費やして、心の葛藤をえぐりながら、ようやくたどりついた「しかられても、あとはすっきりするから、正直にあやまればいい」を打ち砕いているものである。

 児童たちの驚きは、「それでは、いったいどうすれないいのだろうか。」との、さらに、深い内面的な探求へと歩を進めている。

(中略)この段階は、価値へ志向する心理的な葛藤を深める段階ともいえるだろう。この心理的な葛藤が深化すればするほど、いいかえるなら、「それではいったいどうすればいいんだろう」とか、「どっちを選べばよいか」とかが、価値への志向において、また、実践への態度決定が迫られるによんで、一種の緊迫感を帯び、一歩も引けないぎりぎりの立場に立たされて、その決断が自己に問いつめられてくる。ここではじめて人ごとではない主体的な問いかけが自己の内面において成立する。いいかえれば、道徳的な価値の内面的な自覚ということが、45分という時間の枠の中で、集団を相手に成立するか否かが、実は、この段階が可能であるか否かにかかるということも過言でないということになる。

(以上)

上記の記述は、いわゆる「問い返し」や「補助発問」に当たる発問だと考えられる。そして、自分事として思考するということ、宮地の言葉を借りると「ひとごとではない主体的な問いかけが自己の内面において成立する」という状態になるためには、この種の発音がやはり大事になるということである。


(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/12/13

発問の分類「道徳問題の意識化・共通化をはかる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「道徳問題の意識化・共通化をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 個別的な生活経験が、相互のコミュニケーションによって共通化され「自分ばかりでなく、みんなにもそういったことがある」と気づく。このステップを押さえて、次になされることは、そこから本時問題にしようとする道徳問題を導き出し、ひとりひとりの児童に、その生活のどこが問題か、それを単なる生活問題としてではなく、道徳問題として意識させ、把握させることである。

(中略)現象として外面的に問題視されているものを手がかりにしながら、自己の内面に問いかけ、問題に対する自己の内なるもののあり方、傾向、弱さ、強さ、積極さ、消極さ、ずるさ、もろさ、等々に気づかせていくわけである。

(以上)

生活問題を道徳問題として意識させること、これは現在の道徳科授業においても大切にされていることです。例えば、上記の「生活問題」を「教材の中の問題」として置き換え、なぜそれが問題かを考えさせることで問いをつくることもできます。


(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/12/12

発問の分類「経験の共通化をはかる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「経験の共通化をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 生活経験の共通化をはかるということは、一方において、学級集団に対して授業という形で指導が展開される場合、当然のことであると同時に、他の一方において、児童のそれぞれが、これまで個々の自分の生活問題として受け止めていたことを、みんなの生活問題として意識することによって、その問題を受け止める姿勢が集団として積極化されてくるということがある。これはたいへん重要なことである。

「みんなも、このことで苦しんでいたのか。みんなもこんなときには、そんなに困ったのか。よし、ひとつ、しっかり考えよう・・・。」

 みんなの共通の問題だという意識は、ひとりひとりに、その問題への接近の姿勢を非常に積極化する

 特に、「そんなことは、自分にもあった」とか「だれにもあることだな」と児童のひとりひとりが、教師の発問をきっかけにし、また相互の話し合いによって気づくことが重要視される。

(以上)


(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/11/20

発問の分類「生活経験を想起させる発問」~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「生活経験を想起させる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。

(以下、引用参考文献から一部抜粋)

 本時の授業のねらいに方向づけられている児童の直接的・あるいは間接的な生活経験を思起させ、そこから、本時、問題にしようとする道徳問題を導き出し、意識化しようとする意図で発せられる問いである。いわゆる導入段階に発せられる問いである。

 (中略)しかし、生活経験を思い起こさせる発問は、いつも、常に、導入段階のみとは限らない。展開の段階においても、そして終末の段階においても出される。

 ただその位置づけによって、発問の角度づけあるいは方向が変わってくる。その意味において、教師は、何のために、ここで、生活経験を思い起こさせる必要があるのか。その論理を明確にしておく必要がある

(以上)

 現在の道徳科授業でも、導入場面等で生活経験を想起させることはよくあります。宮地の言葉を借りると、何のために、その場面で生活経験を思い起こさせるのか、そのことを授業者は明確にする必要があるでしょう。


(引用参考文献)

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)

2024/11/19

発問の分類~宮地忠雄~


 宮地忠雄は、道徳科授業における発問を6つに分類しています。


1 生活経験を想起させる発問

2 経験の共通化をはかる発問

3 道徳問題の意識化・共通化をはかる発問

4 道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問

5 価値の発見・把握をはかる発問

6 価値の実践化(実践への意欲化)をはかる発問


《参考引用文献》

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)



2024/11/18

学期末(学年末)のふり返りから考える発問の在り方


 学期末や学年末に、道徳科の授業全般についてのふり返りを行っているでしょうか。毎時間の授業の最後にふり返りや感想を書かせている先生は多いと思いますが、学期末(学年末)のふり返りもとても大事になります。毎時間のふり返りと異なり、「学び方」についてもゆっくりと見つめることができるからです。

 例えば、ある年の5年生児童が次のようなふり返りを書いていました。

ぼくの思う授業のよさは、問題が出てきて、考えて、また問題が出てきて、考えて、という「考える」ことができるのが道徳科の授業のよさです。

今までで一番よかったなと思ったのは、「うばわれた自由」です。なぜなら、わたしはこの授業でいろいろな意見が出て、「じゃあ、もっと規則を増やしたらいいんじゃない?」などの疑問が出てきて、いちばん自分たちで話し合えたと思うからです。

 どちらのふり返りも、児童自身が感じた授業のおもしろさを書いています。そして、この二人に共通することは、「わかりやすい授業がよい」というものではなく、「問題や疑問が次々と出てくる授業がおもしろい」と感じていることです。まさに、主体的に学ぼうとできているのではないかと考えます。

 さて、元立教大学助教授(当時)の松平信久は、発問に係る書籍の中で以下のように述べています。

(以下、引用参考文献より一部抜粋)

 その発問が、その時間全体を通して解決すべき問いと密接に結びつき、全体的構造をもって子どもたちに投げかけられた時に、彼らはその発問の多様さにもかかわらず、自分たちが取り組んだ問いは一時間全体を使って解決すべき一つの問いであったと実感するのである。

 自分たちの能力の限りを尽くして考え、それによって問題を乗り越える喜びを知る。問題の解決によって新しい地平の開けていることを知るとともに、そこにはまた新たなる課題の山脈が続いていることを知る

 子どもたちはそのような知的体験を強く欲しているのである。道徳の時間に対しても、そのような知的格闘を通しての作業を彼らは望んでいる。

(以上)

 松平が述べている「課題の山脈」こそ、主体的な学びで求められるいるものであり、道徳科授業で追い求めていきたい発問の在り方なのではないでしょうか。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/11/17

4年生「ヒキガエルとロバ」~「気落ち悪い」という意識~


 4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業について考えます。

 本教材の授業を参観すると、ヒキガエルの写真を見せて、子供たちから「気持ち悪い」という発言を引き出そうとする導入を見かけることがあります。

 この導入に意図やねらいがあると思いますが、教師が「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけのもと、このような導入をする必要はあるのか疑問をもちます。ヒキガエルの体の色が私たちの体の色と異なるからでしょうか。体にブツブツのようなものがあるからでしょうか。

 ヒキガエルを人として捉えたとき、肌の色が異なっていても、病気等で体に発疹や腫瘤などがあったとしても、それを「気持ち悪い」と捉えさせようとすることはあり得ません。確かに、教材の中に「気持ち悪い!」という記述があります。ただ、教師側から「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけをさせる必要はあるのかを考えたいところです。

2024/11/16

内面性の進化


 

 元立教大学助教授(当時)の松平信久は、以下のように述べています。

(以下、参考引用文献から一部抜粋)

 まず第一に、観念としてある自己像、かくあるべしとして想起される自己像との対比において自分の言動を「反省」してみても、それは観念の世界での空転に終わりやすいということである。抽象的な徳目との対比において、「〜の行動はできなかった」「〜のような悪い考え方をしてしまった」等と考えたり、告白をしたとしても、具体的に問題を打開してゆく契機とはなり難い

 反省を実質的内容を持ったものとするためには、個々具体的な事実に即して、自分のどのような行為が、相手のどのような反応を引き起こしたのか、その反応の背後で相手はどのように考えたのか、等の分析と推察が必要なのである。つまり反省のためにも、その思考の対象となる他者の存在が必要なのである。

 このように考えてみると、内面性の深化とは、自分だけの観想の森に入り込んで、その森をあてどなく深部にまで探索の歩を進めるということではない。事態のおかれた状況とそれを巡る人々と、行為の当事者である自分との間の不断の交流によって進められる営みなのである。

(以上)

 松平が述べていることから、内面性の深化のためには、具体的な事実に即して自分の行為が相手のどのような反応を引き起こしたのか、相手がどのように考えたのか等を推察することが重要だということが分かります。

 道徳科の授業においても、例えば、登場人物の言動が他者のどのような反応を引き起こしているのか、その背後でどのような心情が芽生えているのか、そのようなことをじっくりと考えさせることが求められるのでしょう。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/11/07

4年生「ヒキガエルとロバ」~いじわるしたい気持ちだけ?~


 4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業づくりについて考えます。

 本教材では、少年(アドルフ)たちがヒキガエルに小石を投げつけたり荷車にひかれるのを見守ったりするなど、ヒキガエルの命を大切にしない言動が描かれています。

 一般的な流れでは、教材前半で小石を投げつけている少年(アドルフ)たちの気持ちを考えさせ、「楽しい」「もっとぶつけたい」などの、発言を引き出すことが多いように思います。

 そこで、この授業展開に一石を投じるために一つの発問を提案します。

アドルフ達の心の中は、「ヒキガエルに意地悪しよう」という気持ちが100%だったのかな。

という発問です。

 この発問は、自分事として捉える手立てにもなるのではないかと考えます。「楽しい」という同じ言葉であっても、その奥にある子供たちの思いは様々です。個別最適な学びにつなげるためにも、一人一人の言葉の奥にあるものをみつめてあげたいものです。

 学級の中には、アドルフ達の言動を認めたくない子もいます。いじめを受けて悲しい経験のある子などは、アドルフの言動を決して許せず、自らの口で「楽しい」「おもしろい」など発言したくないのではないでしょうか。「いじめをしたら楽しい」というような発想を学級全体で共有したくないのではないでしょうか。さらに、このままだと、授業後半での学びは、「意地悪(本教材では小さな命を奪おうとすること)をしたら楽しいけれど、そのようなことはしてはいけない」という学びになる恐れがあります

 しかし、多くの道徳科授業では、このような非道徳的な言動を肯定するような発言を授業前半で求められます。その場面では「いじめをして楽しい」「おもしろい」という発言がまるで正解のように扱われます。果たして、そのような道徳科授業でよいのでしょうか。

 そこで、上記のような発問を補助発問として尋ねるのです。「1%は『こんなことはしてはいけない』」というような意見が出れば、学級の中にいる、いわゆる弱い立場の子たちの心を救うことができるのではないでしょうか。

 上記のような発問をして、もし「その通り!100%だ!」という考えが学級全員だとしたら、授業後半で「100%の意地悪の気持ちを変えたものは何?」というように尋ねることができます。

 「少しは『いけない』という気持ちがあった」という考えが出たとすれば、後半で「この『いけない』という気持ちを大きくさせたものは何?」「『いけない』という気持ちが大きくなったアドルフたちは、帰り道にどんな会話をしたのだろう?」などと尋ねることができます。

 このように、子供たちからどちらの立場の意見が出たとしても、それを拾って後半につなげることができますし、学級にいる多様な子どもの思いを救ってあげることができると考えます。

2024/11/03

発問を考える~道徳科の授業と教科の授業との違い~


 道徳科の授業と教科の授業の違いについて、宮地忠雄は「発問」という視点をもとに以下のように述べています。

(以下、参考引用文献から一部抜粋)

 道徳の授業では、常に、子どもひとりひとりにその内面的な世界を探求させそこに「道徳性を自己の自覚として主体的にとらえさせる」ことがねらわれ、教科の授業とはそのアプローチが非常にちがってくる。

 一見、形態的には同じようではある。すなわち、目標があり内容があり、しかもそれを計画的に指導するわけであるから「授業」という表現すら、その45分の指導に対して用いられる。しかし、教科の授業でねらわれるものは客観の世界であるのに対し、道徳の授業では自己の内面的な世界である。それはあくまでも「自己の自覚として主体的」に追求されるものである。であればこそすでに第一章第一節「内面化と発問」でもふれたように、道徳の授業の成否を決定するものは、内面的な世界へと問いかけが成立するか否かである。教師とひとりひとりの子ども、そしてその集団内において、心の対話が直接、間接に(資料を媒介として)成立するか否かが道徳における授業という形態をとる指導が可能となるかどうかを決定する。

 この子ども自身の内面的な世界へと探求のキーポイントをなすものが、教師の発問であることは、すでにたびたび述べた。

 いいかえれば、道徳の授業を、道徳の授業たらしめているもの、教科の授業との根本的なちがいをもたらすもの、それは、教師の発問そのものに含まれる。道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのようにくふうするか、その発問を具体的にどうおさえるかは、まさしく根本的命題である。

(以上)

 宮地の言う「道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのように工夫するか」という点こそ、道徳科授業を作っていく過程で最も大事にしたいところかもしれません。なお、このことは安易に「あなたならどうする?」と問えばよいというわけではなく、授業全体を通しての工夫(手立て)が求められているといえるでしょう。


《参考引用文献》

宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)