宮地忠雄は、道徳科授業での発問を6つに分類しています。そのうちの「道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問」について、宮地は以下のとおり説明をしています。
(以下、引用参考文献から一部抜粋)
道徳問題を意識化する段階では、まだ、それを、何のためにどうするのか。何をみんなで考えるのか。その追求の方向や焦点がはっきりしていない。
本時のねらいにあわせ、問題のポイントをはっきりさせ、共同思考の体制を確立することが重要である。
児童たちから出てきた「ことば」を吟味して、そこのどこが問題か、その考え方のどこが問題かをはっきりさせる。あるいは、常識的な反応や、一般的な思考、また、これまで持っていた概念のどこに甘さがあるのか、そこをついて、ときにはくだいて、これから掘り下げていこうとする問題点をはっきりさせる。これが効果的にできるかどうかが、本時の授業の成否を左右するといっても過言ではなかろう。
(中略)児童たちは30分を費やして、心の葛藤をえぐりながら、ようやくたどりついた「しかられても、あとはすっきりするから、正直にあやまればいい」を打ち砕いているものである。
児童たちの驚きは、「それでは、いったいどうすれないいのだろうか。」との、さらに、深い内面的な探求へと歩を進めている。
(中略)この段階は、価値へ志向する心理的な葛藤を深める段階ともいえるだろう。この心理的な葛藤が深化すればするほど、いいかえるなら、「それではいったいどうすればいいんだろう」とか、「どっちを選べばよいか」とかが、価値への志向において、また、実践への態度決定が迫られるによんで、一種の緊迫感を帯び、一歩も引けないぎりぎりの立場に立たされて、その決断が自己に問いつめられてくる。ここではじめて人ごとではない主体的な問いかけが自己の内面において成立する。いいかえれば、道徳的な価値の内面的な自覚ということが、45分という時間の枠の中で、集団を相手に成立するか否かが、実は、この段階が可能であるか否かにかかるということも過言でないということになる。
(以上)
上記の記述は、いわゆる「問い返し」や「補助発問」に当たる発問だと考えられる。そして、自分事として思考するということ、宮地の言葉を借りると「ひとごとではない主体的な問いかけが自己の内面において成立する」という状態になるためには、この種の発音がやはり大事になるということである。
(引用参考文献)
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
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