2022/12/25

「劇化」と「役割演技」


 上越教育大学大学院の早川裕隆は、道徳科授業における「役割演技」について以下のように解説しています。

(以下、一部抜粋)

 役割演技については、昭和33年改定の学習指導要領において、「劇化」として登場します。「劇化」について、翌年出された小学校道徳指導書(文部省)では、その形式として「脚本に従って演技するものと、脚本を用いない即興的な役割演技などがある」とし、役割演技は「およその題目と役割と場面を決めておくだけで、児童に自由に演劇させるもの」と紹介されています。その後の改定から「劇化」は「役割演技」に代わっていることから、役割演技は、「脚本に従って演技するもの」とは違うと考えられます。

(以上)

 過去の学習指導要領からも、役割演技には「即興性」が求められていることがわかります。しかし、指導案に「役割演技」と記載されていても、実際に授業を参観すると教科書に記載されている発言を追っていたりワークシートに書いたものを読ませたりしている姿をよく見かけます。そのような活動は役割演技としては不十分であるという自覚のもと、授業者は子供たちの「即興性」を引き出すために、発問や授業展開を工夫したり、学級の雰囲気作りに取り組んだりしていくことが必要だと考えます。


《引用参考文献》

『道徳教育 2022年12月号』(明治図書,2022)

2022/12/22

道徳科授業と自尊感情(はしのうえのおおかみ)  


 教科調査官の浅見氏は、自己有用感(自尊感情と同意としている)を高める道徳科授業について、1年生「はしのうえのおおかみ」を例に以下のように述べています。

(以下、一部抜粋)

 低学年での定番教材「はしのうえのおおかみ」は、Bの視点「親切、思いやり」を手掛かりとした教材として用いられることが一般的です。小学校低学年の段階であれば、最終的には、身近にいる人たちに対して、相手のことを考えて優しく接することができるような心を養うことが求められます。

 相手は親切にされてどう思ったのか、「自己有用感」を高めるためには、おおかみと重ねた子ども自身の気持ちや考えを問うだけでなく、橋を渡してもらったうさぎの気持ちを確かめることも必要になるはずです。その後、おおかみと重ねた自分の気持ちも確かめていきます。

(以上)

 親切にした相手がうれしい気持ちになったことを理解するということは、嬉しさという「感情の共有体験」になるのではないでしょうか。自らが選択(よりよい行動と判断)した行為によって、喜びを共有する体験ができるということも道徳科授業の魅力であり、自尊感情を育むための大切な手立てになりそうです。そして、この手立ては、例えば役割演技を取り入れることでより効果的ではないかと考えます。


 《引用参考文献》

『道徳教育 2022年12月号』(明治図書,2022)

道徳科授業と自尊感情(4)


 心理学者の近藤卓は、基本的自尊感情を高めるためには「共有体験」が大事になると述べています。「共有体験」とは「感情と体験の共有」を指し、4つの構成因子からなるとしています。


友人因子

友人たちとの意見の一致や、目が合うといった体験

交流深化因子

友人たちと同じであるだけでなく、一緒につらいことを悲しんだり乗り越えたりと、ネガティブ感情についても共有できたと感じる体験

家族生活因子

家族と一緒に過ごす時間

日常生活因子

日常で関わる人たちと交流する体験


 基本的自尊感情は、上記の因子からなる「共有体験」の繰り返しによって、和紙を重ねていくように少しずつ育まれていくものだと近藤は述べています。道徳科授業においても、対話を通して意見が一致(不一致)する体験や、友だちとの交流で目が合うといった体験を重ねることで、子ども達の基本的自尊感情を高めることができるのではないでしょうか。

《参考引用文献》

近藤卓『基本的自尊感情を育てるいのちの教育』(2014,金子書房)


2022/12/21

道徳科授業と自尊感情(3)


 心理学者の近藤卓は、自尊感情を「社会的自尊感情」と「基本的自尊感情」からなるものと定義しています。

 

近藤は、他者と比べて優れているとか、何かできることがあるといった場合に高まる「社会的自尊感情」ではなく、あるがままの自分自身を受け入れ、良いところも悪いところも、長所も短所もあわせ持った「基本的自尊感情」こそが、自尊感情の基盤を支える大切な感情だと述べています。


《参考引用文献》

近藤卓『基本的自尊感情を育てるいのちの教育』(2014,金子書房)


2022/12/20

道徳科授業と自尊感情(2)


 ローゼンバーグが定めた自尊感情の尺度は、国内外で広く用いられています。

 以下、それぞれの項目について、①強くそう思う、②そう思う、③そう思わない、④強くそう思わない、のいずれかで回答してください。

 

 1. 私は、自分自身にだいたい満足している。

 2. 時々、自分はまったくダメだと思うことがある。

 3. 私には、けっこう長所があると感じている。

 4. 私は、他の大半の人と同じくらいに物事がこなせる。

 5. 私には誇れるものが大してないと感じる。

 6. 時々、自分は役に立たないと強く感じることがある。

 7. 自分は少なくとも他の人と同じくらい価値のある人間だと感じる。

 8. 自分のことをもう少し尊敬できたらいいと思う。

 9. よく、私は落ちこぼれだと思ってしまう。

 10. 私は、自分のことを前向きに考えている。

 

「強くそう思う」=4点、「そう思う」=3点、「そう思わない」=2点、「強くそう思わない」=1点で点数化(質問項目2, 5, 6, 8, 9については、 「強くそう思う」=1点、「そう思う」=2点、「そう思わない」=3点、「強くそう思わない」=4点)。

出所:Rosenberg, M. (1965) Society and the adolescent self-image. Princeton, NJ: Princeton University Press:

 

 道徳科授業を通して「自尊感情を高める」という目標を掲げる場合の具体的な手立てとして、このローゼンバーグの尺度を用いて実際に子ども達の現状を把握し、一定期間後に再度測定することで変化を視覚化するという取組も考えられます。


2022/12/19

道徳科授業と自尊感情


 「子ども達の自尊感情を高めたい」という声をよく聞きます。研究会の提案の中でも自尊感情についての記載がよく見られます。

 ところで、「自尊感情とは何か?どうやったら高められるのか?」と尋ねられたら、私たち教師は明確に答えることができるでしょうか。言葉の定義が不明瞭のまま「自尊感情」という言葉を使うことで学びの目標や手段を曖昧にしてしまってはいないでしょうか。

 「自尊感情」という言葉は、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズが下図のように定義しました。

 

 また、ローゼンバーグは、『自尊感情』を「自分に対する自己評価感情」と定義し、10の質問項目で数値化することができると述べています。さらに、自尊感情には二つの側面があることを指摘し、「他者との比較から優越感を得られる感情」と「他者との比較でなく、ありのままの自分に対する肯定的感情」とに分けています。


《参考引用文献》

近藤卓『基本的自尊感情を育てるいのちの教育』(2014,金子書房)

2022/12/03

真理の探求、創造


 内容項目A「真理の探求、創造」の授業づくりについて、中学校学習指導要領解説をもとに考えます。まず、解説(中学校)で気になる記述は以下になります。

小学校の段階では、高学年で、真理を求める態度を大切にし、物事の本質を見極めようとする知的な活動を通して興味や関心を刺激し、探求する意欲を喚起させる指導を行っている。  中学校学習指導要領解説P35

 この記述を読むと、身が引き締まる思いがします。小学校の道徳科の授業で、私たちは子供たちの「真理を求める態度」を大切にできているのでしょうか。教師のもっている「答え」を子供たちに与えようとしていないでしょうか。

 また、「物事の本質を見極めようとする知的な活動」という言葉も心に刺さります。人物の心情を順に想像するだけの学習活動は、はたして「知的な活動」と言えるでしょうか。

 では、「知的な活動」とはどのようなものなのでしょう。それに関する具体的な紹介は記載されていませんが、小学校の解説を読むと以下のようなことが書かれています。

一般に、科学的な真理や構造は、個々の具体的な自然現象や社会現象の背景にあるものであり、物事を探求しようとする心は、何もないところから突然生まれるものではなく、児童の日常生活の中で生じる小さな好奇心、疑問や分からないことへの興味、関心から徐々に育まれるものである。また、その探究心は、疑問に思ったことや分からないことをそのままにしておくことではなく、真理を大切にし、真理を追い求めることによって確かなものとなる。

 「真理の探求」の教材の多くは、社会で活躍をした人の姿が描かれています。その人たちは「日常の中で生じる小さな好奇心」を大切に、そこから探究心を育み、真理を追い求めようとした人たちです。授業では、その「小さな好奇心」や、「探究心が育まれていく過程」を子供たちにしっかりと考えさせたいものです。

 ただ、上述したように、教科書の流れに沿って順に考えさせたところで、それは「知的な活動」にはなりません。ここで大切にしたいことは、目の前の子供たちの「小さな好奇心」を大事にすることではないでしょうか。教材を読み、自らの心の中に芽生えた違和感や尊敬の念を自覚させる。そして、「なぜ違和感をもったのか」「その人物のどこを、なぜ尊敬するのか」という自らの問いを解決させる授業とする。このような授業(活動)こそ「知的な活動」であり、「真理の探求」の授業では特に大事になるのではないかと考えます。

2022/12/02

「わからない」ということ


 道徳科の授業で「わかりやすさ」を求めるあまり、教材の流れに沿って一問一答的に人物の心情を理解させようとしたり、教師が必要以上に説明したりする授業を見かけます。果たして、その授業は子供たちにとって魅力あるものでしょうか。子供たちの立場から考えたとして、道徳科授業での「わかりやすい」は本当に魅力あることでしょうか。

 奈須正裕は、著書の中で以下のように述べています。

 教師が一生懸命に「わからせよう」としていることは、実は子供たちにとって「わかっていると思い込んでいること」を何度も説明されていることになります。子供たちが道徳科授業で退屈してしまう要因はここにあります。

 発問や対話を通して「わからない」を生むこと、そしてそれについての理解を他者と共に深めさせること。道徳科授業の授業づくりではこの視点が求められています。学習指導要領解説や教科書教材を読み、「わからない」を教師が見つけ出そうする姿勢が大切になるのです。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/12/01

道徳科の目標から授業を考える


 道徳科の目標から授業づくりを考えてみます。

 道徳科の目標を「学習活動」の観点で分けてみると、道徳性を養うために以下の(1)〜(4)の学習活動が求められていることがわかります。

 学習指導案を上記の観点から分析し、展開内の学習活動が(1)〜(4)のどれに該当するかを理解しておくことで、それらの学習活動の意義が明確になることでしょう。

2022/11/29

令和の道徳科授業(8)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「個別最適な学びと協働的な学びの往還を原理とした授業づくり」について以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 実は、奈良女附小のように、特に学習法とか独自学習といったことを明確に打ち出してはいない学校でも、協働的な学びに先立ち、一人ひとりが個別的な学びを存分に深められるような機会を保障している学校や教師は少なくありません。

 それどころか、かつての社会科では、授業と授業の間に、子どもたちが自主的に家庭で考えをまとめてきたり、地域の人から聞き取り調査をしたりすることを暗黙の前提として授業を構想・実施していましたし、子どもたちもそのように学んでいました。

 個別最適な学びと協働的な学びの往還を原理とした授業づくりは、けっして新しいものでも珍しいものでもありません。もちろん、大正期にそのことを看破していた木下や奈良女附小はさすがだと思いますが、私たちが感心し是非ともやってみたいと願うような授業は、必ずと言っていいほど個別最適な学びをその構成要素として含み込んでいたのです。

(以上)

 令和の時代に求められている「個別最適な学び」は、決して新しく何かを始めるのではないという著者のメッセージを受け取ることができます。

 さて、道徳科授業は「45分(50分)で完結させるもの」という考え方が当たり前にあるように感じています。しかし、道徳教育は学校生活の全ての場面で行うべきものだという前提から考えると、かつての社会科と同じように、授業と授業の間に自主的に考えたり調べたりすることを子供たちに意識づけすることも大事になるのではないでしょうか。道徳科授業においても、「個別最適な学び」と「協働的な学び」を往還させるということです。そうすることで、より広く、より深く考え議論する道徳科授業が生まれるのではないかと、私は思っています。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/27

令和の道徳科授業(7)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「独自学習と相互学習の往還」について以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 深く真剣な独自学習により、自分としては一定の結論を得て、もうこれ以上は考えられないという地点にまでたどり着いた時、子どもは同じく懸命に独自学習に取り組んでいる他者の考えを聞きたくなります。この段階で相互学習を設定すれば、仲間の考えに真剣に耳を傾け、自身の学びとのすり合わせの中で生じた感想や疑問を率直に語り合う、すぐれて互恵性の高い学びが生じるでしょう。それゆえ、同校では相互学習による授業を、通常の「話し合い」でなかく「聞き合い」の授業と呼び習わしてきました。

 仲間の考えを聞き、自分の考えも聞いてもらい、また、それらについてのお尋ねや応答、そこで見えてきた問いを巡っての議論なども活発になされる中で、もちろん、子どもたち全員が納得し、決着のつく事柄も数多くあるでしょう。しかし、むしろ大切なのは、先の独自学習では気付けていなかった点、あらためて調べたり考え直したりすべき事柄が明らかになってくることです。

 さらに興味深いのは、残された課題や追加で検討すべき事項には、全員に共通するものも一定程度ありますが、多くは一人ひとりに固有なものであったり、少なくとも重みや焦点が微妙に違ったりしていることでしょう。一般的な授業の終盤で見られるような「今日の授業でこのことがわかりました」といった平板で画一的なまとめで一件落着になるような他人ごとの浅い学びとは正反対の位置に、奈良の学習法は碇をおろしているのです。

 だからこそ、相互学習が一段落すると、子どもたちは再度の独自学習へと向かっていきます。仲間との「聞き合い」でわかったこと、考えたこと、疑問に思ったこと、課題として残ったことなどを各自で整理し、もう一度「孤独の味」の世界に没入して、何より自分に対し誠実に、さらなる学びを深めていくのです。

(以上)

 前日の記事で「複数時間扱いの内容項目の一時間を「独自学習」として取り組んでみてはどうか」ということを提案しましたが、現在の道徳科授業は圧倒的に「独りで考える」という時間が足りていないということに改めて感じさせられる記述です。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/26

令和の道徳科授業(6)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「個別最適な学びと協働的な学びの関係(独自学習と相互学習の往還)」について、奈良女子大学附属小学校の例をもとに以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 木下竹次と奈良女附属小は、自分たちの取組を「学習法」という言葉で説明してきました。それは、どうやって子どもに教えるかという教授法ではなく、子どもたちはどのように学び育つか、また、学校や教師はそれをどのように支えるかを柱にして、日々の教育実践や教育研究を推進していこうとの立場を象徴しています。

 そんな同校では、「特設学習時間」を典型とした個々人による自立的な学習を「独自学習」と呼ぶのですが、同時に集団で協働的に学び合う「相互学習」も大切にしていて、学習過程としては、独自学習→相互学習→独自学習という流れを理想としていました。これが、奈良の学習法の基本原理の一つということになります

 この原理は今日でもなお大切にされていて、同校では普通の教科学習でも、まずは独自学習によって一人ひとりがしっかりと学び深めます。しかも、算数科の授業などでよくやられる「自立解決七分間」といったちゃちなものではなく、丸一時間、場合によっては数時間をかけて一人でじっくりと課題や教材と向き合い、納得がいくまで考え抜いたり調べたりする学習になることが多いです。

 戦後、文部省で小学校社会科の創設に関わり、後に同校の主事を務めた重松鷹泰は「孤独の味」という言葉で独自学習の意義というか、その独特なたたずまいを表現しています。一人静かに沈思黙考して課題と正対し対話すること、また、その過程において必然的に生じるであろう自己との正対や対話は、その子の学び、そして成長にとって、きわめて貴重にして決定的に重要な経験となるに違いありません。

(以上)

 道徳科授業で、上記の「独自学習」がどれぐらい確保されているかを想像してみると、ほぼ確保できていないという現実があります。ワークシートに考えを書く時間はあるかもしれませんが、子供たちの「書きたい」という気持ちから生まれた時間ではなく、教師の指示によって生まれる時間なので、奈良女子大学附属小の「独自学習」とは異なるものといえるでしょう。

 道徳科では一つの内容項目について年間で複数時間扱います。例えば、そのうちの一時間を「独自学習」として取り組んでみてはどうでしょうか。新聞記事や補助資料等を使い、自分たちで道徳的諸価値について考える時間を十分に確保する。事前に教材を読ませておいて、自らの考えをしっかりともたせておく。そのうえで、授業時間を「相互学習」の時間として扱う

 従来の道徳科授業は45分(50分)を一つの括りとして考えていました。令和の道徳科授業を考える際、その授業観を今一度見直してみてはいかがでしょうか


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)

2022/11/25

令和の道徳科授業(5)〜個別最適な学びと協働的な学び〜


 奈須氏は、「協働的な学び」について、著書の中で以下のように述べています。

(以下、著書より抜粋)

 その際、教師はいわゆる「41人目の追求者」として、子どもたちとともにどこまでも学びを深めていこうとする存在であることが肝要です。たとえ小学校低学年の学習内容であっても、考え深めるほどにわからなくなっていくことは、よくあることでしょう。そして、それでいいのです。なぜなら、学ぶとは本来、わかっていると思い込んでいたことが、一段深い水準においてわからなくなることだからです。わからなくなることは、学びにいてよい兆候であり、それを回避することは学びを遠ざけることでしかありません。すると、事例のように、このような学び本来のあり方を教師が身をもって教室で体現することこそが、子どもたちをよい学び手へと育て上げていく上で最善の教材ということになります。

(以上)

 道徳科の授業でも、「わからない」を自覚させることが大事になります。教師の「わからない」を直接子どもたちにぶつけてもよいのではないでしょうか。教師が「わかっている」前提で授業をするから、子どもたちが本気になれないのではないかと、私は思っています。子どもを見くびることなく、「教える」ではなく「ともに考える」という道徳科授業はいかがでしょうか。


《引用参考文献》

奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』(2021,東洋館出版社)