宮地忠雄は、道徳科授業における発問を6つに分類しています。
1 生活経験を想起させる発問
2 経験の共通化をはかる発問
3 道徳問題の意識化・共通化をはかる発問
4 道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問
5 価値の発見・把握をはかる発問
6 価値の実践化(実践への意欲化)をはかる発問
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
宮地忠雄は、道徳科授業における発問を6つに分類しています。
1 生活経験を想起させる発問
2 経験の共通化をはかる発問
3 道徳問題の意識化・共通化をはかる発問
4 道徳問題の焦点化・明確化をはかる発問
5 価値の発見・把握をはかる発問
6 価値の実践化(実践への意欲化)をはかる発問
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
学期末や学年末に、道徳科の授業全般についてのふり返りを行っているでしょうか。毎時間の授業の最後にふり返りや感想を書かせている先生は多いと思いますが、学期末(学年末)のふり返りもとても大事になります。毎時間のふり返りと異なり、「学び方」についてもゆっくりと見つめることができるからです。
例えば、ある年の5年生児童が次のようなふり返りを書いていました。
ぼくの思う授業のよさは、問題が出てきて、考えて、また問題が出てきて、考えて、という「考える」ことができるのが道徳科の授業のよさです。 |
今までで一番よかったなと思ったのは、「うばわれた自由」です。なぜなら、わたしはこの授業でいろいろな意見が出て、「じゃあ、もっと規則を増やしたらいいんじゃない?」などの疑問が出てきて、いちばん自分たちで話し合えたと思うからです。 |
どちらのふり返りも、児童自身が感じた授業のおもしろさを書いています。そして、この二人に共通することは、「わかりやすい授業がよい」というものではなく、「問題や疑問が次々と出てくる授業がおもしろい」と感じていることです。まさに、主体的に学ぼうとできているのではないかと考えます。
さて、元立教大学助教授(当時)の松平信久は、発問に係る書籍の中で以下のように述べています。
(以下、引用参考文献より一部抜粋)
その発問が、その時間全体を通して解決すべき問いと密接に結びつき、全体的構造をもって子どもたちに投げかけられた時に、彼らはその発問の多様さにもかかわらず、自分たちが取り組んだ問いは一時間全体を使って解決すべき一つの問いであったと実感するのである。
自分たちの能力の限りを尽くして考え、それによって問題を乗り越える喜びを知る。問題の解決によって新しい地平の開けていることを知るとともに、そこにはまた新たなる課題の山脈が続いていることを知る。
子どもたちはそのような知的体験を強く欲しているのである。道徳の時間に対しても、そのような知的格闘を通しての作業を彼らは望んでいる。
(以上)
松平が述べている「課題の山脈」こそ、主体的な学びで求められるいるものであり、道徳科授業で追い求めていきたい発問の在り方なのではないでしょうか。
《参考引用文献》
上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)
4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業について考えます。
本教材の授業を参観すると、ヒキガエルの写真を見せて、子供たちから「気持ち悪い」という発言を引き出そうとする導入を見かけることがあります。
この導入に意図やねらいがあると思いますが、教師が「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけのもと、このような導入をする必要はあるのか疑問をもちます。ヒキガエルの体の色が私たちの体の色と異なるからでしょうか。体にブツブツのようなものがあるからでしょうか。
ヒキガエルを人として捉えたとき、肌の色が異なっていても、病気等で体に発疹や腫瘤などがあったとしても、それを「気持ち悪い」と捉えさせようとすることはあり得ません。確かに、教材の中に「気持ち悪い!」という記述があります。ただ、教師側から「ヒキガエルは気持ち悪い」という決めつけをさせる必要はあるのかを考えたいところです。
元立教大学助教授(当時)の松平信久は、以下のように述べています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
まず第一に、観念としてある自己像、かくあるべしとして想起される自己像との対比において自分の言動を「反省」してみても、それは観念の世界での空転に終わりやすいということである。抽象的な徳目との対比において、「〜の行動はできなかった」「〜のような悪い考え方をしてしまった」等と考えたり、告白をしたとしても、具体的に問題を打開してゆく契機とはなり難い。
反省を実質的内容を持ったものとするためには、個々具体的な事実に即して、自分のどのような行為が、相手のどのような反応を引き起こしたのか、その反応の背後で相手はどのように考えたのか、等の分析と推察が必要なのである。つまり反省のためにも、その思考の対象となる他者の存在が必要なのである。
このように考えてみると、内面性の深化とは、自分だけの観想の森に入り込んで、その森をあてどなく深部にまで探索の歩を進めるということではない。事態のおかれた状況とそれを巡る人々と、行為の当事者である自分との間の不断の交流によって進められる営みなのである。
(以上)
松平が述べていることから、内面性の深化のためには、具体的な事実に即して自分の行為が相手のどのような反応を引き起こしたのか、相手がどのように考えたのか等を推察することが重要だということが分かります。
道徳科の授業においても、例えば、登場人物の言動が他者のどのような反応を引き起こしているのか、その背後でどのような心情が芽生えているのか、そのようなことをじっくりと考えさせることが求められるのでしょう。
《参考引用文献》
上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)
4年生教材「ヒキガエルとロバ」の授業づくりについて考えます。
本教材では、少年(アドルフ)たちがヒキガエルに小石を投げつけたり荷車にひかれるのを見守ったりするなど、ヒキガエルの命を大切にしない言動が描かれています。
一般的な流れでは、教材前半で小石を投げつけている少年(アドルフ)たちの気持ちを考えさせ、「楽しい」「もっとぶつけたい」などの、発言を引き出すことが多いように思います。
そこで、この授業展開に一石を投じるために一つの発問を提案します。
アドルフ達の心の中は、「ヒキガエルに意地悪しよう」という気持ちが100%だったのかな。 |
という発問です。
この発問は、自分事として捉える手立てにもなるのではないかと考えます。「楽しい」という同じ言葉であっても、その奥にある子供たちの思いは様々です。個別最適な学びにつなげるためにも、一人一人の言葉の奥にあるものをみつめてあげたいものです。
学級の中には、アドルフ達の言動を認めたくない子もいます。いじめを受けて悲しい経験のある子などは、アドルフの言動を決して許せず、自らの口で「楽しい」「おもしろい」など発言したくないのではないでしょうか。「いじめをしたら楽しい」というような発想を学級全体で共有したくないのではないでしょうか。さらに、このままだと、授業後半での学びは、「意地悪(本教材では小さな命を奪おうとすること)をしたら楽しいけれど、そのようなことはしてはいけない」という学びになる恐れがあります。
しかし、多くの道徳科授業では、このような非道徳的な言動を肯定するような発言を授業前半で求められます。その場面では「いじめをして楽しい」「おもしろい」という発言がまるで正解のように扱われます。果たして、そのような道徳科授業でよいのでしょうか。
そこで、上記のような発問を補助発問として尋ねるのです。「1%は『こんなことはしてはいけない』」というような意見が出れば、学級の中にいる、いわゆる弱い立場の子たちの心を救うことができるのではないでしょうか。
上記のような発問をして、もし「その通り!100%だ!」という考えが学級全員だとしたら、授業後半で「100%の意地悪の気持ちを変えたものは何?」というように尋ねることができます。
「少しは『いけない』という気持ちがあった」という考えが出たとすれば、後半で「この『いけない』という気持ちを大きくさせたものは何?」「『いけない』という気持ちが大きくなったアドルフたちは、帰り道にどんな会話をしたのだろう?」などと尋ねることができます。
このように、子供たちからどちらの立場の意見が出たとしても、それを拾って後半につなげることができますし、学級にいる多様な子どもの思いを救ってあげることができると考えます。
道徳科の授業と教科の授業の違いについて、宮地忠雄は「発問」という視点をもとに以下のように述べています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
道徳の授業では、常に、子どもひとりひとりにその内面的な世界を探求させそこに「道徳性を自己の自覚として主体的にとらえさせる」ことがねらわれ、教科の授業とはそのアプローチが非常にちがってくる。
一見、形態的には同じようではある。すなわち、目標があり内容があり、しかもそれを計画的に指導するわけであるから「授業」という表現すら、その45分の指導に対して用いられる。しかし、教科の授業でねらわれるものは客観の世界であるのに対し、道徳の授業では自己の内面的な世界である。それはあくまでも「自己の自覚として主体的」に追求されるものである。であればこそすでに第一章第一節「内面化と発問」でもふれたように、道徳の授業の成否を決定するものは、内面的な世界へと問いかけが成立するか否かである。教師とひとりひとりの子ども、そしてその集団内において、心の対話が直接、間接に(資料を媒介として)成立するか否かが道徳における授業という形態をとる指導が可能となるかどうかを決定する。
この子ども自身の内面的な世界へと探求のキーポイントをなすものが、教師の発問であることは、すでにたびたび述べた。
いいかえれば、道徳の授業を、道徳の授業たらしめているもの、教科の授業との根本的なちがいをもたらすもの、それは、教師の発問そのものに含まれる。道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのようにくふうするか、その発問を具体的にどうおさえるかは、まさしく根本的命題である。
(以上)
宮地の言う「道徳の授業において、内面的な世界への問いかけをどのように工夫するか」という点こそ、道徳科授業を作っていく過程で最も大事にしたいところかもしれません。なお、このことは安易に「あなたならどうする?」と問えばよいというわけではなく、授業全体を通しての工夫(手立て)が求められているといえるでしょう。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
「内容項目」をなぜ「目標」と呼ばないのか。そのことについて、宮地忠雄は以下のように説明しています。
(以下、参考引用文献から一部抜粋)
授業における教師の発問は、いうまでもなくその授業のねらいを達成するために発せられる。これは教科の授業においても同じである。しかし、教科の授業では、概念を形成するとか、思考力を高めるとか、また、読解力や観察力を伸ばす、といったように、客観の世界に対する知識・認識力あるいは処理力を高めることを、その主たるねらいとする。
道徳の授業でも、道徳的な価値について、その見方、考え方を伸ばすということは、重要なことである。しかし、それは授業のねらいとなって、その主座を占めることはない。道徳の授業では、つねに、「道徳性の内面的な自覚」こそが、ねらわれ、追求される。道徳的価値と称せられるもろもろのものは、「道徳性の内面的な自覚」に迫る、その迫り方、あるいは側面を示すものにほかならない。36項目が、また、21項目が、「目標」ではなく「内容」である意味もここにある。そのような、もろもろの内容(価値)を手がかりにして「道徳性の内面的な自覚」をねらうことが道徳の時間の指導で問われているのである。
(以上)
私たちは学習指導要領解説に記載されている内容項目を読み、そこから本時のねらいや授業展開、発問を考えます。しかし、内容項目に書かれていることを理解させることが道徳科の授業で求められていることではなく、それらを手がかりにして内面的な自覚をねらうことが求められている。だからこそ、「目標」ではなく「内容」という言葉が使われているのだと分かります。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
「問い」について、樋口(2020)は「子どもたちの中から生じる疑問、問題意識、探究心が『問い』になる」と述べています。道徳科の授業においても、子供たちの中にある「問い」を引き出すことが、主体的に学ぼうとする力を育む糸口になると考えられます。
さて、「問い」を引き出すためには教師の手立ても欠かせません。田沼(2020)は「個別の『問い』を意図的に披瀝し合う場を設け、語らいを通してすり合わせ、調和的に調整し合い、学習集団全体の合意形成プロセスを経ての共通追求道徳課題設定を行う」ことを「グループモデレーション」と述べています。この「グループモデレーション」を意識し、まずは、「個別の『問い』を意図的に披瀝し合う場を設ける」ところから授業づくりを始めてはどうでしょうか。
《参考引用文献》
樋口万太郎『子どもの問いからはじまる授業!』(2020、学陽書房)
田沼茂紀『問いで紡ぐ小学校道徳科授業づくり〜学びのストーリーで「自分ごと」の道徳学びを生み出す〜』(2020、東洋館出版社)