2024/01/25

葛藤からの内面的自覚


 村田昇は、道徳と葛藤の関係について、以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 人間はまさしく葛藤のなかに生きているのである。われわれはこの葛藤のなかで、具体的な状況に即して的確に判断し、解決の道をみずから選択し、決断し、敢行し、その結果に対して責任を負わなければならない。

 では、この葛藤のなかでいかなる道を選ぶか。その選択のしかたは無数にあり、けっして一つではない。しかも、そのいずれかが正しくていずれかが正しくないというのではなくて、そのいずれもある程度正しいし、また、そのいずれもことごとく正しくない。この葛藤の場において、少しでもより高い価値を選択しようと努力するところに、道徳は成立するのである

(以上)

 このことについて、小学校6年生の教材「手品師」を例にして考えてみます。中心人物である手品師は、大劇場に行くか、男の子のところに行くか、迷いに迷います。葛藤の結果、男の子のところに行くことを選択し、決断します。この決断が誰にとっても正しいのかというと、子供たちの反応も決してそうではないでしょう。大劇場に行くべきだと選択(発言)する子もいるでしょう。

 しかし、手品師にとっては、男の子のところに行くことのほうがより高い価値だったのです。それは、「先に約束をしたから」というものではなく、手品師の生き方にかかわる決断であり、村田の言葉を借りるなら、手品師が葛藤し、少しでも高い価値を選択し努力した(きっぱりと断った)ところで道徳が成立したということになります。

 シュプランガーも、「特に道徳的体験の生起する場は、常に葛藤である」と述べています。そうであれば、この場面で子供たちにじっくりと考えさせることが大事になるでしょう。手品師の決断を、自分はどう感じたのか。友達の考え方を聞いて、自分はどう感じるのか。手品師の決断を既存の集団的道徳(内容項目)からの要求とするなら、葛藤しながらも決断をしたことで手品師の中に生まれた「道徳的価値の内面的自覚」を、子供たちに共感させるということです。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

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