2024/01/24

集団的道徳と内面的自覚


 「しないといけないから」「叱られるから」と、集団的道徳の要求を強制的・命令的に受け取り、それがそのまま自己の個人的倫理になってしまうと、その人は自律的・主体的とはいえないでしょう。このことについて、村田昇は以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 個々人は、ことの決定にあたって、自己の内密な良心にものをいわせなければならないのであり、既存の集団的道徳の要求が自己のうちなる良心において考慮され、つねにそれが内的に是認され、同意されて、自己自身の主体的決断として表明されなければならないのである。これがすなわち「道徳的価値の内面的自覚」であり、これによって、はじめて真に道徳的といわれうるのである。

(以上)

 道徳科の授業において、子供たちはいわゆる「正しい」とされることについて学びます。しかし、教材で学ぶ内容は集団的道徳であり、それをそのまま答えとする授業では、子供たちの道徳性の育成にはつながらないということです。

 授業の中で、「本当にそうなのか」「なぜ、よいとされているのか」「本当にできるのか」など、子供たちが自己の中で問いつづけることが大事であり、それを促す発問を教師が常に用意しておくことも大事なことになるでしょう。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)


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