杉谷雅文(親和女子大学教授 当時)は、道徳の授業のあり方について、子供たちが静かに考える時間が大事だと述べています。
(以下、一部抜粋)
今日わが国の道徳教育の時間は、学習過程のそれぞれの段階で、グループや集団の話し合いをさせている。教師が指導上、ねらいや焦点をはずれぬように、児童・生徒に質問するのはいいが、彼らがゆっくり落ち着いて静かに考える時間的ゆとりを与えることが余りにも少なすぎる。(中略)どうして教師は、もっとじっくり構えて、子供らにゆとりと静けさと沈黙の中で問題を掘り下げ、分析させないのだろうか。これでは子供らの側に知見の深まりも、心情の豊かさも、将来への向上の意欲も育つはずがない。
(以上)
近年の道徳科授業では、「対話的」であることが重視され、多くの授業でペアトークやグループトークを見かけます。現行の学習指導要領で求められている学びの姿ではありますが、「話し合いをすること」が目的となってしまっては本末転倒です。杉谷が述べているように、子供たちが落ち着いて静かに考える時間も大事であると、常に意識しておきたいところです。
ここで、視点を変えてみます。では、杉谷は、道徳科の授業の中で他者との対話の時間は不要だと考えていたのでしょうか。このことについて、杉谷は以下のようにも述べています。
(以下、一部抜粋)
このことは、勿論、子ども同士の話し合いによる相互刺激、相互補足を拒むものではない。せっかく同じクラスのメンバーとして、学級という一つの集団を形成しているのだから、一人だけではできない、考えの狭さや片寄りや心情の浅さを除くため、メンバー相互の話し合いによる学習形態はきわめて大切である。
しかしこの話し合いが形だけの中身のないものにならないないためには、話し合う前に、それぞれ自分なりの経験や考えを、人に聞いてもらうに値するだけの、しっかりした中身のあるものにしておくことが第一だ。それには、話し合いをする前にも、した後でも、各自が落ち着いてじっくり考え抜いておくことが望ましい。
一見いかにも児童・生徒が活発に発表し、活動しているかに見えながら、事実は内容の深まりも、質の向上も生まれない。ひとりひとりができるだけ静かに落ち着いて考え抜き、練り上げたものを、話し合い、発表し、交換した後、それを各自がまた静かに考え抜き、味わい抜いて、自分一人では気づきえなかったこと、自分の狭さ、片寄り、浅さを除くことが大切である。
(以上)
このように、杉谷は、個人学習と集団学習、個人思考と集団思考とが、互いに交わり合う学習の仕方こそ、道徳的な諸価値の形成が結びつくと述べています。このことは、現在求められている個別最適な学びと協同的な学びの関係性と同様なものといえるでしょう。まさに、道徳科授業における「不易と流行」の「不易」にあたるのではないでしょうか。
《参考引用文献》
上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)