2024/01/26

他者理解と内面的自覚

他者理解と内面的自覚


 道徳科授業では、価値理解、人間理解、他者理解という3つの理解が重要であるとされています。3つの理解の中で、他者理解に焦点を当てて考えてみます。

 なぜ、他者理解が必要となるのか。このことについて、心理学者のシュテルンの論が参考になります。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 われわれは、われわれが他人との共同体のなかで、他人を『理解』することによって、自己の生活経験を補うのである。他人を理解することは、自己の生活経験を前提とする。自己の生活経験が深く、かつ広ければ、それだけいっそう、われわれは他人をよりよく理解する。しかし、われわれが他人を理解することによって、自己の生活経験は、すなわち、われわれ自身の理解は深化され、拡大され、そうして再び一層豊かな他人の理解を可能にする。すなわち、自己の本質と他人の本質との理解は、不断の相互関係において発展するのである。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)


2024/01/25

葛藤からの内面的自覚


 村田昇は、道徳と葛藤の関係について、以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 人間はまさしく葛藤のなかに生きているのである。われわれはこの葛藤のなかで、具体的な状況に即して的確に判断し、解決の道をみずから選択し、決断し、敢行し、その結果に対して責任を負わなければならない。

 では、この葛藤のなかでいかなる道を選ぶか。その選択のしかたは無数にあり、けっして一つではない。しかも、そのいずれかが正しくていずれかが正しくないというのではなくて、そのいずれもある程度正しいし、また、そのいずれもことごとく正しくない。この葛藤の場において、少しでもより高い価値を選択しようと努力するところに、道徳は成立するのである

(以上)

 このことについて、小学校6年生の教材「手品師」を例にして考えてみます。中心人物である手品師は、大劇場に行くか、男の子のところに行くか、迷いに迷います。葛藤の結果、男の子のところに行くことを選択し、決断します。この決断が誰にとっても正しいのかというと、子供たちの反応も決してそうではないでしょう。大劇場に行くべきだと選択(発言)する子もいるでしょう。

 しかし、手品師にとっては、男の子のところに行くことのほうがより高い価値だったのです。それは、「先に約束をしたから」というものではなく、手品師の生き方にかかわる決断であり、村田の言葉を借りるなら、手品師が葛藤し、少しでも高い価値を選択し努力した(きっぱりと断った)ところで道徳が成立したということになります。

 シュプランガーも、「特に道徳的体験の生起する場は、常に葛藤である」と述べています。そうであれば、この場面で子供たちにじっくりと考えさせることが大事になるでしょう。手品師の決断を、自分はどう感じたのか。友達の考え方を聞いて、自分はどう感じるのか。手品師の決断を既存の集団的道徳(内容項目)からの要求とするなら、葛藤しながらも決断をしたことで手品師の中に生まれた「道徳的価値の内面的自覚」を、子供たちに共感させるということです。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/01/24

集団的道徳と内面的自覚


 「しないといけないから」「叱られるから」と、集団的道徳の要求を強制的・命令的に受け取り、それがそのまま自己の個人的倫理になってしまうと、その人は自律的・主体的とはいえないでしょう。このことについて、村田昇は以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 個々人は、ことの決定にあたって、自己の内密な良心にものをいわせなければならないのであり、既存の集団的道徳の要求が自己のうちなる良心において考慮され、つねにそれが内的に是認され、同意されて、自己自身の主体的決断として表明されなければならないのである。これがすなわち「道徳的価値の内面的自覚」であり、これによって、はじめて真に道徳的といわれうるのである。

(以上)

 道徳科の授業において、子供たちはいわゆる「正しい」とされることについて学びます。しかし、教材で学ぶ内容は集団的道徳であり、それをそのまま答えとする授業では、子供たちの道徳性の育成にはつながらないということです。

 授業の中で、「本当にそうなのか」「なぜ、よいとされているのか」「本当にできるのか」など、子供たちが自己の中で問いつづけることが大事であり、それを促す発問を教師が常に用意しておくことも大事なことになるでしょう。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)


2024/01/23

道徳の本質


 村田昇は、「道徳」について以下のように述べています。

(以下、参考文献より一部抜粋)

 道徳(Moral)は、シュプランガーもいうように、2つの非常に異なった現象を意味するものと解されている。すなわち、「社会的ないしは集団的道徳」と「個人的倫理」である。前者は、国民道徳、階級道徳、家族道徳などのように、その集団のなかで大多数のひとびとに認められ、守られている共同生活の規範的な秩序、ないしは価値判断の総体概念として現れているものである。これに対して、後者は、個人の本性に根ざし、道徳的価値の世界ないしはその秩序に対する「個人的生活態度」を意味する。もちろん後者は、前者の土壌の上に、またはこれを背景として成り立っている。この区分は、道徳教育の本質を明らかにするために、きわめて重要である。

(以上)

 学習指導要領解説に記載されている内容項目も、望ましいとされる一つの集団的道徳であり、一般に道徳的価値とも言われているのです。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/01/22

道徳教育の歴史(2)〜社会科と徳育〜


 修身科を核とした戦前の道徳教育体制は撤廃されましたが、問題はそれに代わるべき徳育をどのように構想するかということにありました。当面はまず、次の2点の方法を採用することになりました。

(1)民主主義的な社会原理を、新たな徳育の原理に据える。

(2)我が国の伝統とでも言うべき「道徳的態度形成中心」の視点から脱却し、「道徳的価値認識形成中心」の徳育のあり方を採る。

 この方針を受けて、新教育体制の「学習指導要領一般編」では、教育課程の中に社会科がおかれます。新たに採用された「社会科」は、「社会生活についての良識と性格を養うために、戦前の修身・公民・地理・歴史などの教科の内容を融合し、一体化させたもの」とされました。この背景には、教育使節団報告書にある公民教育授業の実施案の一例として、ソーシャル・スタディズが参考にされたことが考えられます。

 このとき、「社会科は従来の修身・公民・地理・歴史を一括総称したものではない」とされましたが、その目標の中に、

生徒が人間としての自覚を深めて人格を発展させるように導き、社会連帯性の意識を強めて、共同生活の進歩に貢献すると共に、礼儀正しい社会人として行動するように導くこと。


社会生活において事業を合理的に判断するとともに、社会の秩序や法を尊重して行動する態度を養い、更に政治的な諸問題に対して宣伝の意味を理解し、自分で種々の情報を集めて、科学的総合的な自分の考え方を立て、正義・公正・友愛の精神をもって、共同の福祉を増進する関心と能力とを発展させること。

とあるように、社会科が、新教育の道徳教育において中心的役割を期待されていたことが見て取れます。いわば、社会科学的認識形成と組み合わされて道徳的実践にかかわる態度形成が見込まれていたということです。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/01/21

道徳教育の歴史(1)〜戦前から戦後へ〜


 1945年に終戦を迎え、教育の方針も大転換を迎えました。9月15日発表の「新日本建設の教育方針」は教育勅語を擁護する姿勢を明示し、過去の誤りは教育勅語そのものにあるのでなく、その運用に失敗があるとしました。

 そこで、教育勅語精神の骨格をそのままに、国家主義的な色彩を民主主義的な色彩に塗りかえることで新教育体制を発足させるために公民教育重視の方針を打ち出し、政府は公民教育刷新委員会を設けます。12月には、「道徳は元来社会における個人の道徳なるが故に『修身』は公民的知識と結合してはじめてその具体的内容を得、その徳目も現実社会において実践さるべきものとなる」として、公民科を確立すべきという答申が出されました。

 しかし、連合軍総司令部は覚書指令をあいついで発出し、軍国主義の徹底的払拭を図ります。日本政府の当初の思惑は基本的に否定され、特に、「修身・日本歴史及地理停止に関する件」(12月31日覚書)によって、日本の道徳教育は180度転換を余儀なくされます。戦前の教育体制の中核であった修身科が完全に姿を消すことになるのです。これにより修身科教科書類は回収されることになりました。

 そして、翌年に来日した教育使節団は、報告書の中で、道徳教育のあり方には、フランス式の独立教科システムと、アメリカ式の特別の道徳教科を設けず教育活動の全面において行う方式の二様があり、どちらもそれぞれ正当な根拠をもっていて、今後の方針は日本人に委ねて、ただそれが平和的に教えられ民主主義の方向に向けられることだけを条件とする報告をしています。

 これらにより、戦前の道徳教育体制は撤廃されましたが、問題はそれに代わるべき徳育をどのように構想するかということにありました。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/01/20

個人思考と集団思考


 杉谷雅文(親和女子大学教授 当時)は、道徳の授業のあり方について、子供たちが静かに考える時間が大事だと述べています。

(以下、一部抜粋)

 今日わが国の道徳教育の時間は、学習過程のそれぞれの段階で、グループや集団の話し合いをさせている。教師が指導上、ねらいや焦点をはずれぬように、児童・生徒に質問するのはいいが、彼らがゆっくり落ち着いて静かに考える時間的ゆとりを与えることが余りにも少なすぎる。(中略)どうして教師は、もっとじっくり構えて、子供らにゆとりと静けさと沈黙の中で問題を掘り下げ、分析させないのだろうか。これでは子供らの側に知見の深まりも、心情の豊かさも、将来への向上の意欲も育つはずがない。

(以上)

 近年の道徳科授業では、「対話的」であることが重視され、多くの授業でペアトークやグループトークを見かけます。現行の学習指導要領で求められている学びの姿ではありますが、「話し合いをすること」が目的となってしまっては本末転倒です。杉谷が述べているように、子供たちが落ち着いて静かに考える時間も大事であると、常に意識しておきたいところです。

 ここで、視点を変えてみます。では、杉谷は、道徳科の授業の中で他者との対話の時間は不要だと考えていたのでしょうか。このことについて、杉谷は以下のようにも述べています。

(以下、一部抜粋)

 このことは、勿論、子ども同士の話し合いによる相互刺激、相互補足を拒むものではない。せっかく同じクラスのメンバーとして、学級という一つの集団を形成しているのだから、一人だけではできない、考えの狭さや片寄りや心情の浅さを除くため、メンバー相互の話し合いによる学習形態はきわめて大切である。

 しかしこの話し合いが形だけの中身のないものにならないないためには、話し合う前に、それぞれ自分なりの経験や考えを、人に聞いてもらうに値するだけの、しっかりした中身のあるものにしておくことが第一だ。それには、話し合いをする前にも、した後でも、各自が落ち着いてじっくり考え抜いておくことが望ましい。

 一見いかにも児童・生徒が活発に発表し、活動しているかに見えながら、事実は内容の深まりも、質の向上も生まれない。ひとりひとりができるだけ静かに落ち着いて考え抜き、練り上げたものを、話し合い、発表し、交換した後、それを各自がまた静かに考え抜き、味わい抜いて、自分一人では気づきえなかったこと、自分の狭さ、片寄り、浅さを除くことが大切である。

(以上)

 このように、杉谷は、個人学習と集団学習、個人思考と集団思考とが、互いに交わり合う学習の仕方こそ、道徳的な諸価値の形成が結びつくと述べています。このことは、現在求められている個別最適な学びと協同的な学びの関係性と同様なものといえるでしょう。まさに、道徳科授業における「不易と流行」の「不易」にあたるのではないでしょうか。


《参考引用文献》

上田薫・平野智美『教育学講座16 新しい道徳教育の探求』(1979,学習研究社)

2024/01/18

見方・考え方


 道徳科の「見方・考え方」について考えます。

 元教科調査官の浅見哲也氏によると、道徳科は他の教科・領域よりも先に、現在の学習指導要領の趣旨を先取りして全面実施された経緯があるため、総則には道徳科の「見方・考え方」は示されていないとのことです。 

 道徳科の「見方・考え方」は、唯一、平成28年の中央教育審議会答申で次のように示されています

【道徳科の「見方・考え方」】

 様々な事象を、道徳的諸価値の理解を基に自己との関わりで(広い視野から)多面的・多角的に捉え、自己の(人間としての)生き方について考えること。

 これは、道徳科の目標そのものであり、道徳科では、このような学習過程を基にして授業に取り組むことが大事になるということです。

 また、内容項目に含まれる道徳的価値を理解し、子供たちが自己の生き方についての考えを深めていけるようにするためには、ただ「多面的・多角的に考える」「自分との関わりで考える」ということではなく、「どのような見方ができるようにするか」や、「どのようなことを自分自身との関わりの中で深めていくか」ということを明確にしておく必要があるともいえます。


《参考引用文献》

『道徳教育 2024.2月号 P70-72』(明示図書出版)

2024/01/17

「気持ち」を問うか、「なぜ」を問うか


 道徳科授業では、「どんな気持ちでしたか?」と問うときもあれば、「なぜ〜したのでしょうか」と問うこともあります。

 「どんな気持ちか」を考えさせる発問は、「共感的発問」と呼ばれます。多様な考えを引き出すことに適していて、「広める発問」ともいわれます。

 「なぜ〜したのか」を考えさせる発問は、「分析的発問」と呼ばれます。理由や根拠を問うことで思考を焦点化でき、「深める発問」ともいわれています。

 道徳科の授業では、これらの発問を効果的に組み合わせることが大事になります。