麗澤大学客員教授の広中忠昭氏は、「道徳授業の『うまい』とはどういうことか」について、雑誌原稿の中で以下のように述べています。
(以下、抜粋)
今回の学習指導要領の改定では「共同的な学び」と「個別最適な学び」が重視されています。この学習の主体は子どもです。
一方で「授業がうまい」ということは、教師に向けられた評価です。(中略)しかし、現在、授業観、学習観の見直しが求められる中で、いつまでも教師の「うまい」「へた」にこだわることは本当によいことなのでしょうか。
すでに、優れた先生方は子どもたちに学び方を身につけさせることに熱心に取り組まれています。道徳科においても、教師が深い学びに至るように子どもたちに指導・教授することを「うまい」と評価するのではなく、子どもたちが道徳科の学びの特質を理解し、仲間や先生たちと共に深い学びを実現する力を身につけられるようなかかわりができる先生こそ「うまい」先生ではないでしょうか。
(以上)
道徳科授業での学びは、小学校・中学校の9年間という長い期間にわたって積み上がっていきます。しかし、どの学年でも教師主導の授業が多く、導入からふり返りまで、発問や学習活動の決定権は教師が握っているのが現状です。子供たちは発問を与えられる立場であり、発言する権利も教師の許可が必要となる現状です。それらの授業で身に付く学び方は、「教師の発言を待つ」ということであり、「教師の言ってほしいことを想像する」ことになってしまいます。
しかし、学びの主体は子供たちです。教材との出会いを通して子供たち自らが問いをもち、その問いを子供たち自身で解決していこうとできる授業が、これまでも、これからも、求められているはずです。
《引用参考文献》『道徳教育 2023年8月号』(明治図書,2023)
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