子供たちの基本的自尊感情を高めるためには、日々の生活のなかでの「共有体験」が大事になります。学校生活の中で一番多くの時間を過ごすのは「授業」ですので、日々の授業のなかで、例えば、友達といっしょに悩んだり喜んだり、意見が一致したり視線が合ったりする体験の確保を、授業者は意識する必要があるでしょう。
子供たちの基本的自尊感情を高めるためには、日々の生活のなかでの「共有体験」が大事になります。学校生活の中で一番多くの時間を過ごすのは「授業」ですので、日々の授業のなかで、例えば、友達といっしょに悩んだり喜んだり、意見が一致したり視線が合ったりする体験の確保を、授業者は意識する必要があるでしょう。
子供たちの発言に対して、教師は全てを分かっている立場として応答しがちです。また、本時のねらいに向かうために、子供たちの発言を教師だけの判断で取捨選択する場面が多々あります。
教師は、本当に全てを分かっているのでしょうか。決してそのようなことはありません。目の前の子供が、どのように物事を捉え、どのような「世界」に生きているのかは、その子自身しか分からないことであり(その子自身も分かっていないかもしれません)、だからこそ、日々の生活の中で、授業の中で、子供たちとの対話が必要になるのです。
その際、時に教師としての専門性や経験を脱ぎ捨て、目の前の子供に敬意を抱き、その子の発言の一つ一つに興味をもって聞いてあげる必要があります。例えば、道徳科授業の中で教師の意図しない発言があった場合、「その発想、想像してなかった!なんておもしろい発言なのだろう」「なぜ、そのような発想をしたのだろう」など、「あなたの考えをもっと聞かせてほしい!」という思いを教師が抱けること、言い換えると、授業づくりに余白をもっておくことが、多様な考えを認め合える道徳科授業では必要になります。
「児童(生徒)の気持ちを理解しようとする教師の姿勢」について大切なのは、大人(多数派)の当たり前を押し付けようとしないということです。子供たちの行動や発言の一つ一つに、その子にとっての理由があります。その理由を理解しようとすることなく、「その行動はおかしい」「ふつうは〜するべきだ」と接することが、その後の問題行動につながっていきます。
道徳科授業での発言も同様です。時に、教師の意図しない発言をする児童(生徒)がいますが、その発言の裏にある理由を、教師はいつでも理解しようとする姿勢が、多面的・多角的に考える道徳科授業では大事になります。
道徳科授業を成立させるためには、学級の子供たち一人一人の実態を指導者が把握していること、いわゆる確かな児童(生徒理解)が大切です。学習指導要領総則解説においては、
①日ごろのきめ細かい観察
②面接などの適切な方法
③児童(生徒)の気持ちを理解しようとする教師の姿勢
が大事だとされています。
とりわけ、③「児童(生徒)の気持ちを理解しようとする教師の姿勢」は、子供たちの心をゆさぶる発問や、予想される発言を考える際のポイントになります。
大阪体育大学の髙宮正貴は、内容項目「親切、思いやり」の押さえどころとして、親切の本質を以下のように述べています。
(以下、抜粋)
低学年では「おせっかい」であったとしても親切にすることが推奨されますが、高学年では「相手の立場に立つ」ことが望まれています。これは発達段階の問題でもありますが、「相手の立場に立つ」ことは、親切や思いやりの成立条件です。
「相手の立場に立つ」ことが大切なのは、相手には「自由」があるからです。カントによれば、個々人が何に喜びを感じるか、どこに喜びを置くのかはその人の自由に基づいており、その人が決めることです。つまり、相手には自分にとって何が幸福であるかを選択する自由があります。それゆえ、私の幸福感に基づいて相手に親切にするのではなく、相手の幸福感に基づいて親切にしなければなりません。相手の幸福感ではなく私の幸福感に基づいて親切を行うと「おせっかい」になります。それゆえ、本当の親切とは、相手の自由を尊重しながら、相手が望んでいることを行うことです。
(以上)
「相手の自由を尊重する」という視点を、「親切、おもいやり」の授業づくりでは大事にする必要があるということです。
《引用参考文献》『道徳教育 2023年8月号』(明治図書,2023)
麗澤大学客員教授の広中忠昭氏は、「道徳授業の『うまい』とはどういうことか」について、雑誌原稿の中で以下のように述べています。
(以下、抜粋)
今回の学習指導要領の改定では「共同的な学び」と「個別最適な学び」が重視されています。この学習の主体は子どもです。
一方で「授業がうまい」ということは、教師に向けられた評価です。(中略)しかし、現在、授業観、学習観の見直しが求められる中で、いつまでも教師の「うまい」「へた」にこだわることは本当によいことなのでしょうか。
すでに、優れた先生方は子どもたちに学び方を身につけさせることに熱心に取り組まれています。道徳科においても、教師が深い学びに至るように子どもたちに指導・教授することを「うまい」と評価するのではなく、子どもたちが道徳科の学びの特質を理解し、仲間や先生たちと共に深い学びを実現する力を身につけられるようなかかわりができる先生こそ「うまい」先生ではないでしょうか。
(以上)
道徳科授業での学びは、小学校・中学校の9年間という長い期間にわたって積み上がっていきます。しかし、どの学年でも教師主導の授業が多く、導入からふり返りまで、発問や学習活動の決定権は教師が握っているのが現状です。子供たちは発問を与えられる立場であり、発言する権利も教師の許可が必要となる現状です。それらの授業で身に付く学び方は、「教師の発言を待つ」ということであり、「教師の言ってほしいことを想像する」ことになってしまいます。
しかし、学びの主体は子供たちです。教材との出会いを通して子供たち自らが問いをもち、その問いを子供たち自身で解決していこうとできる授業が、これまでも、これからも、求められているはずです。
《引用参考文献》『道徳教育 2023年8月号』(明治図書,2023)
先日、「いじり」は『遊びのフレーム』であると述べました。個々の言動に着目させるだけではなく、そのフレーム(集団)に目を向けさせることが大事になるということです。このことは、内容項目C「公正、公平、社会正義」の内容にも合致しています。
さて、本教材の展開後段で学級という集団に目を向けさせるための手段として、教材の中の学級の一員になりきって「模擬学活」をするという学習活動はいかがでしょうか。モラルスキルトレーニングの手法を取り入れ、一回目は「再現のロールプレイング」として、ゆうきが思い悩んでいる場面を再現させます。2回目は「解決のロールプレイング」として、実際に教材の中の学級の問題を解決するための話合いをさせ、実際に身に付けるべきスキルについて考えさせます。
「いじり」か「いじめ」かについて議論を進めても、子供たちの理解が深まらないと想定される場合、上記のようなモラルスキルトレーニングとしての「模擬学活」という学習活動もおもしろいのではないでしょうか。
小学校4年生教材「いじりといじめ」について考えます。本教材では、「いじり」がよいか悪いかという二項対立で話し合う授業をよく見かけます。また、「いじり」が「いじめ」につながるからいけないものだ、という理解を目指す授業も見かけます。
そもそも、「いじり」とは何なのでしょうか。
(以下、抜粋)
対立の回避を最優先させる若者たちの人間関係を「優しい関係」と呼んだうえで、「優しい関係」を営む子どもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑う。傍観者たちもまた、それを眺めて笑う。互いに遊びのフレームに乗り切り、「いじり」と呼ぶ軽薄な人間関係を演出することで、いじめが有する人間関係の軋轢が表面化することを避けようとする。
(以上)
上記によると、「いじり」とは対立の回避を最優先させる軽薄な関係性であり、「いじめ」が有する人間関係の軋轢を表面化させないためのものであるといえます。
本教材のまさるも、げんきも、みかも、ゆうきも、「いじり」という『遊びのフレーム』の中に入れられた存在なのです。そうであれば、一人一人の言動がよい(悪い)という議論だけではなく、発問や板書で『遊びのフレーム』(関係性)に注目させる必要があるといえるでしょう。
さて、「いじり」という『遊びのフレーム』に気づかせる発問としては、
・「ぼく、まちがえちゃったよ」という言葉に込められたまさるの思いは? ・学級集団の中にいるぼく。みんなといっしょなら安心するのは、なぜ? |
などが考えられます。
また、「いじり」という『遊びのフレーム』を打破を目指すための発問としては、
・「いじる」関係をなくすと、どのようなコミュニケーションが生まれるのかな? ・この学級に、あったらいいものと、なくしたほうがいいものは? ・学級の一人として、ゆうきが大事にしたいものは(気づいたことは)? |
などが考えられそうです。
《引用参考文献》
中野円佳『上司の「いじり」が許せない』(講談社)