小学校4年生の教材「いろいろな食べ方」(日本文教出版)について考えます。
本教材の内容項目は、「C 国際理解、国際親善」です。発達段階による学習内容の違いは以下の図の通りになります。
また、授業づくりの際に大事な視点として、「他国の文化との共通点や相違点に目を向ける」ということも記載されています。
これらのことを、本教材の授業づくりの際に意識することが求められています。
小学校4年生の教材「いろいろな食べ方」(日本文教出版)について考えます。
本教材の内容項目は、「C 国際理解、国際親善」です。発達段階による学習内容の違いは以下の図の通りになります。
また、授業づくりの際に大事な視点として、「他国の文化との共通点や相違点に目を向ける」ということも記載されています。
これらのことを、本教材の授業づくりの際に意識することが求められています。
小学校6年生教材「ぼくだって」(日本文教出版)について考えます。内容項目はB「相互理解、寛容」です。
教科書に、「友達の失敗を許せなかったことはありますか?」という発問(導入)が記載されています。ところで、「失敗」とは何なのでしょうか。また「許す」とは、具体的にはどのような心の動きなのでしょうか。当たり前に使っている言葉ですが、これらを自分の言葉で具体的に説明をしようとすると、とても難しくはないでしょうか。道徳科の授業では、ふだん当たり前に使っている言葉や無意識に行っている行為を、改めて考えることがとても重要になります。
さて、「失敗を許す」と一括りに質問をするにしても、その基準や心の動きは子供たち一人ひとり異なります。そこで、導入の一つの手立てとして、先生がいくつかの「友達の失敗(とされるもの)」を提示して、自分は「許せる」「許せない」で分類をさせてみてはどうでしょうか。それぞれの「許す」という基準を意識させるのです。
そして、ここでの判断基準と、授業後半での思考とを理解という行為への認つなげる(対比させる)ことで、子供たちの理解の「ずれ」を生み出すことができると考えます。
中学校1年生教材「裏庭でのできごと」について考えていきます。
例えば、「なぜ健二は職員室に向かおうと思ったのか」という発問をすると、「ばれて怒られるのが嫌だから」「モヤモヤする気持ちが消えないから」などの意見が子供たちから出てきます。確かにその通りな発言かもしれませんが、これらの考え方からは、健二の行為に対しての尊敬の念が感じられません。どうしても、健二の自己保身のための行動に感じてしまいます。
もし、ここまでに「誠実な生き方」という主題を提示していたり、導入で「誠実な生き方とは?」と尋ねたりしているのであれば、ここで「誠実な生き方とは、自己保身のためのもの(自分を守るためのもの)?」と尋ねていることもおもしろそうです。
また、宮地忠雄は、道徳の時間(当時)で大事なことは『道徳的な価値についての認識を深めさせ、その実現について尊敬の念を抱かせること』と述べています。そうであれば、子供たちのどのような発言に焦点を当てると「尊敬の念」を抱かせることができるのでしょうか。
実際の授業では、子供たちは以下のような発言もしていました。
「正直に言った方が、人として成長できる」
「このままだと、自分に嘘をつくことになる。」
「嘘をつくということに慣れてしまいたくない」
上記のような発言に対して、「どういうこと?もっと具体的に教えてほしいな」と問い返すことで、健二の言動への尊敬の念を抱かせることができるのではないかと考えます。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
中学校1年生中学校1年生教材「裏庭でのできごと」について考えていきます。
教科書(日本文教出版)には、中心発問として「健二を職員室に向かわせたものは何でしょう」と記載されています。「どんな気持ちか」「何を考えていたか」ではなく、「向かわせたものは何か」という発問の意図として、編著者の島恒生は以下のように述べています。
(以下、抜粋)
中学生には、「誇り」「逃げない心」といった、自分の値打ちに関わるものが、私たち一人ひとりの心のなかにあることを自覚できるようにしたいと考えます。「なぜ行ったのか」ではなく、「向かわせたもの」と問うことで、「誇り」や「逃げない心」といった抽象的なものを見えるようにするのです。
(以上)
「抽象的なものを見えるようにするための手立て」としての中心発問だということが、上記から理解できます。本番の授業では、ここからさらに「誇りって、何?」「逃げることで失ものは何か?」と問い返していくことで、子供たちの理解をより深めることができるでしょう。
《引用参考文献》
島恒生『納得と発見のある道徳科 「深い学び」をつくる内容項目のポイント』(2020,日本文教出版社)
中学校1年生教材「裏庭でのできごと」について考えていきます。
本教材は、内容項目「A 自主、自律、自由と責任」ですが、子供たちからの意見は「正直に謝ったらすっきりする」というようなものが多数を占めることになりがちです。
さて、宮地忠雄は、書籍の中で以下のように述べています。
(以下、抜粋)
(「叱られても、黙っているより、早くあやまると、あとはすっきりする。だから、早くあやまるといい」という小学校3年生の話合いの結論に対して)最も注意すべきは、30分あまりも費やして、三年生なりにたどりついた結論に対して、「それでいいだろうか」と、真っ向から、それをくだいていく発想をとっている授業だということである。心理アプローチを倫理的アプローチに転回させるステップ、あるいは問いかけ。これが最も注意されるべきである。
(以上)
上記の中で、宮地は「心理アプローチを論理的アプローチに転回させる問いかけ」と表現をしていますが、これこそ「補助発問」や「問い返し」と呼ばれる類の発問になるのではないかと考えます。本教材を扱った授業でも、「謝りにいった方がいい。モヤモヤがなくなる」という生徒の発言に対して、「本当にそうなのか」と真っ向から問い返してみる(論理的アプローチに転回させる)と、子供たちはさらに深く考えられるのではないでしょうか。
《参考引用文献》
宮地忠雄『道徳指導シリーズ8 道徳授業と発問』(1973,明治図書出版)
中学校1年生教材「裏庭でのできごと」について考えていきます。
本教材は、内容項目「A 自主、自律、自由と責任」であり、「自律の精神を重んじ、自主的に考え、判断し、誠実に実行してその結果に責任をもつこと。」とあります。22の内容項目(中学校)の一つ目として例示されていることから、「道徳の最も基本となるもの」と主張している方もいる内容項目です。
ここで、一つ一つの用語を学習指導要領解説をもとに説明します。
自律の精神を重んじる | 他からの制御や命令を待つことなく、自分の内に自ら規律を作り、それに従って行動しようとする気持ちを大切にすること。 |
自主的に考え、判断する | 他人の保護や干渉にとらわれずに、善悪に関わる物事などについて幾つかの選択肢の中から自分で最終的に決めること。 |
誠実に実行する | すがすがしい明るい心で、私利私欲を交えずに真心を込めて具体的な行為として行うこと。 |
その結果に責任をもつ | ある行為により生じた自分が負うべき義務を良心的に忠実に果たすことである。責任とは、ある人の行為がある事態に対して原因となっているとされる場合、生じた結果に対して応答し、対処することである。したがって、行為者にその行為をする自由があることを前提としている。 |
上記のことから、健二の言動について考えてみます。裏庭でサッカーをすることを誘われた健二は、「裏庭はまずいよ」と言いながらも、誘われるがままに裏庭に向かいます。割れたガラスの片付けをしようとしつつも、大輔に誘われてボール蹴りを始めます。
健二は、裏庭に行くことを断る自由(選択肢)も、ガラスの片付けを優先する自由(選択肢)もあったはずなのに、他人の干渉にとらわれてしまい、自分の意思を尊重できませんでした。
本教材では、「ガラスを割ったことを言うか、言わないか」に焦点が当てられている
授業をよく見かけます。しかし、本来なら裏庭に行かなければ起こらなかった出来事であり、ガラスの片付けを優先していれば2枚目を割ってしまうこともありませんでした。それらの出来事を考慮せず「ガラスを割ったこと」だけについて考えても、本内容項目の理解を充分に深められないのではないでしょうか。
健二は、鏡を見ながら、「ガラスを割ったことを謝るか」や「大輔に何を言われるか」ということだけを考えていたのでしょうか。「どうして自分は・・・」と、「自主的に判断できない自分」や「すがすがしい心をもてない自分」についても思いを巡らせていたのではないでしょうか。
そう考えると、この場面での補助発問として、「鏡に写った自分は、どのように見えましたか」と尋ねることで、「弱々しい自分」「後悔している自分」などの発言を引き出し、逆説的に理想とする生き方を考えさせることができそうです。
または、「鏡を見ながら考えたことは、大輔のことだけですか?」と、子供たちの発言を限定する発問をすることで、「いや、他にもあるぞ。例えば・・・、自分で正しい判断をできなかった自分について考えている」と、異なる視点での発言を引き出すこともできそうです。
そのうえで、「裏庭に誘ったのも、ボール蹴りに誘ったのも大輔なのに、僕(健二)は一人で謝りに行かなければならないのか」とさらに問うことで、「自らの判断の責任」について気付かせる展開も考えられるでしょう。
中学校1年生教材「裏庭でのできごと」について考えていきます。
本教材では、主に3名の人物が出てきます。そのうちの一人、大輔の存在を考えてみましょう。
「いいよ、そんなこと。あの場で済んだことなんだから」「俺を出し抜いて先生のところになんか行くなよ。俺の立場が悪くなるじゃないか」と発言をしている大輔。本教材(日分)の主題が「誠実な生き方」とありますが、大輔の言動からは、残念ながら「誠実さ」は伝わってきません。
それでは、本教材になぜ大輔が必要なのか。その理由を学習指導要領解説から考えてみます。
(以下、学習指導要領解説から抜粋)
「自主的に考え、判断」するとは、他人の保護や干渉にとらわれずに、善悪に関わる物事などについて幾つかの選択肢の中から自分で最終的に決めることである。自律は、自分の内部に自ら規律を作ることに焦点があり、自主は、外部に対し自分の力で決定することに焦点がある」
(以上)
上記の「他人の保護や干渉にとわられずに」という部分に、大輔の存在意義があるのではないでしょうか。本教材の授業では、子供たちから「あとで大輔に何を言われるかわからないから、不安」という発言が出てくるでしょう。しかし、その大輔からの「干渉」にとらわれなかった健二の行動こそ「自主的に考え、判断」している姿であり、主題である「誠実な生き方」につながるものなのでしょう。大輔の存在は「友情の構築(崩壊)」という意義ではなく、「他人からの干渉」という存在意義(授業での扱い方)になるということです。
中学校1年生教材「裏庭でのできごと」(日文)について考えていきます。
昨日の記事で「3人が肩を組んでいる写真」と「鏡に写っている自分」という違いについてお伝えしました。本日は、違いをもう1点紹介します。
教材後半、中心人物(健二)は鏡を見ながら「僕は、僕自身はどうしたいんだろう・・・」という心の中の言葉が描かれています。その言葉も、以前は(他社は)「僕は大輔にどう思われているかなんてわからない」という言葉だったようです。
後者の言葉だと、どうしても「大輔との友情」という思考に生徒はとらわれてしまう傾向があると推測できます。
この2点から、内容項目「A 自主、自律、自由と責任」をきちんと意識させてほしいという教材編集の意図が伝わってきます。子供たちはどうしても人間関係に目が行きがちですが、本教材では中心人物(健二)の心に焦点を当てることが大事になるのではないでしょうか。
なお、この2点の違いについて、平成3年に文部省が発行した読み物資料には、その箇所の記述はありません。「練習が終わっても、気が重かった。次の日、健二は昨日のことが気になって、足取りの思いまま、学校へ向かった」と記載されています。子供たちに深く考えさせるために、後日追記された箇所だということになります。
《参考引用文献》
文部省『道徳教育推進指導資料(指導の手引)1 中学校 読み物資料とその利用 ー「主として自分自身に関すること」ー』(平成3年)