精神科医のトム・アンデルセン(2015)は、「自分で問題状況を規定しておきながら、そこにじっとしている自分自身を発見した人は繰り返し繰り返し同じ質問を自分自身に投げかけるのに慣れている。我々がこの規定された問題に対する新しい理解を生み出す過程に寄与するとき、我々は彼らとの会話中に変わった質問をするほかに、どのようにしたら彼らのそれぞれが新しい質問をしはじめる可能性を生み出すことができるだろうか?と問うてみる。言い換えれば、それは、どのようにしたら、我々が話しかけている相手が自分自身に新しい問いかけをしはじめる可能性を作り出すことができるかということである。」と述べている。教師が何のために「発問」をするのか、なぜ我々は、「発問」を吟味するのか。トム・アンデルセンの言葉を元に考えると、「他者(子供たち)が自分自身に新しい問いかけをしはじめる可能性を生み出すため」となる。これは、立場や時代は異なるが、先述の宮地の論と同意のものであると理解できる。
子供たちは、生活経験の中で、道徳的諸価値についてある程度の理解をもっている場合が多い(理解していると思い込んでいる場合を含む)。しかし、その理解は一面的なものであったり、様々な場面が想定されていなかったりするものである。そのような理解だけでは、改めて自分を見つめたり生き方を考えようとしたりすることは困難である。「そこにじっとしている自分自身」になっているのである。そこで必要なのが、トム・アンデルセンのいうところの「変わった質問」をすることであり、我々教師の場合は、「中心発問」や「補助発問」の吟味なのだと考えられる。
《参考引用文献》
トム・アンデルセン著 鈴木浩二監訳「リフレクティングプロセス 会話における会話と会話」(金剛出版、2015)